原爆記念日、敗戦記念日の続く日々に想うこと
①序
わたしが全体主義、権威主義を嫌うのは、わたし自身の中にもある人間誰しもが持つ特性の発露を恐れるからだ。それはどんなに愚劣で、凶暴で、理不尽な観念であっても、一度それに身を委ねてしまうと、何の思慮も反省もなくそれにのみのめり込んでしまうという不条理極まりない特性だ。そんな状況は自分はないとせせら笑う人たちは、ほんの少しでいいから歴史の頁をめくって欲しい。日本でもドイツでも、開戦と戦争遂行に沸き返った大衆がいたことを。ついには自国民にさえ銃口を向けた軍人たちがいたことを。ドイツ人は少なくとも、そのわたしの恐れる人間の特性を自覚し、二度と発露しないように厳しく自分たちを戒めるため、歴史を包み隠すことなく子どもたちにも伝えているそうだ。翻って日本は特に昭和史を隠そう隠そうにかかって、さらには捻じ曲げようとする輩が国会議員にさえ選ばれれている。
結果として「えっ、日本が戦争したんですか」「原子爆弾はどこに落ちたんですか」と言って憚らない若者が、被爆者を驚愕させ恐怖させている。テレビドラマでも、ゲームでも暴力性が過激になる一方であり、カリスマ性を持つ英雄の出現を待望する機運が醸成されている。少し冷静になって考えれば、これほど恐ろしい機運はない。
8月10日の朝日新聞の「声」では、もっと悲しむべき目撃談が寄せられていた。「観光客と見られる大学生らしい男性2人が、平和祈念公園近くの市街地案内板を見て、爆心地!ウケるっ!と腹を抱えて笑っていたというのだ」65歳の保健師さんでもある投稿者は衝撃を受け、その場から逃げるように立ち去ったそうだ。その若者たちはどんな初等・中等教育を受けて来たのかは不明だが、この二つのエピソードに背筋の震える思いなのはわたしひとりだろうか。
経済格差からくる社会的格差、それに伴う若者たちのルサンチマンと苛立ちが、軍国主義的、全体主義的世相を形作っていくことの恐ろしさを、わたしたちは肝に銘じておかなくてはならない。
②抑止力という戦争への道
国防は抑止力でと声高に叫んで軍事力増強の動きが止まるところを知らない。それに伴い軍事費が民生費を犠牲にしながら際限なく増額されている。しかし、「軍事力による抑止力」くらい本末転倒の論議はない。軍事力による抑止とは脅し合いであり、そこに存在するのは虚構の平和でしかない。まるで野生動物が牙を見せ合い、角を見せ合うことで縄張りを守ったりすることと同じだ。野生動物の場合、殺し合いに発展することはほとんどない。しかし、人間の場合、軍事力による欲という脅し合いは、ほとんどの場合破綻して戦争という殺し合いに発展する。
自身で行ったシュミレーションで負ける結論付けたにもかかわらず、そのことをひた隠しに隠し、ついにはなかったことにして米国との戦争に突き進んで行った日本の旧軍は論外としても、相手より優秀な武器を手にしたとたん、権力者や軍人は必ず戦争を始める。それは歴史の証明するところである。
世界の三大軍事大国である米中露が相次いで大規模な軍事パレードをやった。これもまた示威行為であり、抑止力というものがいかにフィクションであるかの証明であろう。
③核抑止力という破滅への道
もともと核兵器は自国民を守るための武器ではない。どんなに贔屓目に見ても自国の体制を守ろうとする為政者にとってのみ頼りになるだけのことである。
広島に落とされたウラン型、長崎に落とされたプルトニウム型、そのいずれも開発のために行われた数々のウラン濃縮工程や実験で、実は多くの米国民を犠牲にしている。トランプは「原爆が太平洋戦争を終わらせた」と豪語したが、死ぬ直前だったルーズベルトは「日本が降伏する前に原爆を完成させよ」と言っていたのだ。彼の死後、後を継いだトルーマンが原爆を使うことに何の躊躇も示さなかったのは、日本との戦争に終止符を打つためというより、自分たちが開発した原爆を1日も早く実践で使い、ソ連を牽制するためであった。要するに原爆の持つプロパガンダ的要素を強調するために、人口の密集する都市を標的にし、民間人を地獄の阿鼻叫喚に突き落としたのだ。さらに自分たちが落としたことで広島・長崎に起こった地獄の惨劇を、占領後はまるでなかったことにするように、言論統制(プレスコード)によって封じ込めようとした。
1996年9月10日、国連総会において包括的核実験禁止条約(CTBT)が採択され、日本は1996年9月24日に署名し、翌1997年7月8日に批准している。2024年10月段階で186カ国が署名、178カ国が批准している。しかし、核兵器保有国を含む44カ国が批准を完了していないため未だに発効していない。
核兵器禁止条約は2017年7月7日に国連総会で採択され、2021年1月22日に発効している。ただしここでも、米英露仏は反対し、被爆国日本も米国の核の傘の下にいるからとして反対にまわった。
核兵器の不拡散に関する条約(NPT)というものがある。1968年に最初の62か国による調印が行われ、1970年3月に発効した。日本も1970年2月に調印し、1976年6月に批准している。現在では191カ国が加盟している。しかし、この条約はつまり米英ロ仏という核保有国の特権は認めるというものであり、我々が知っている通り、核兵器廃絶とは真逆の動きを促しているに過ぎない。
核兵器は参政党の主張するように安上がりなものではない。さらに核兵器による抑止力などフィクションであり、米国の傘の下という考え方もちょっと考えれば矛盾していることに気が付くことである。
④国民のためか、国家と領土と権力者のためか
誤解を恐れずに言うならば、わたしは自衛隊が自衛隊である限り自衛隊は国民を守る存在たりうると考えている。しかし、自衛隊を憲法改編によって防衛軍、つまり軍隊にすることだけは許してはならないとも考えている。軍隊にになった途端、彼らは国民に対しても銃口を向ける存在になることは世界中で見ることのできる事実である。。
そもそも軍隊は人を殺すための暴力装置である。のみならず、軍隊の存在意義については議論が甲論乙駁、喧しいが、軍隊自身の本音のところでは、軍隊という組織は自分たちの存続と拡大のみを志向している。徹底した合理主義と科学的分析によってだとしても、それによって自分たちの組織を盤石化しようとし、それに抗うものを敵視する。
シビリアンコントロールはもちろん必須ではあるが、その理想は宿命的に破られてきたことを、わたし達は歴史にいくらでも例示できる。そりゃあそうだろう。人殺しのための武器を手にし、日頃から人殺しの訓練を徹底して叩き込まれた組織と、武器を持たない政治家とでは、対峙したら最後、どちらが強いか明白である。515を見よ。226を見よ。
日本は平和憲法の下でありながら、米国の都合によって、「警察予備隊」を編成した。今の自衛隊である。警察予備隊は「進駐軍が朝鮮半島に移動して空白地帯となる日本国内において、共産主義シンパが活動しないよう抑え込む」ことを目的としていた。そのことを厳密に考えればわかる通り、日本国民であってもその思想や価値観によっては、抑え込もうとするという意味で、戦前の特高や憲兵隊と同じ目的を持ち、同じ行動をとったと言っても大きくは外れていまい。
それでも、わたしは自衛隊を信じ、認めてきた。自衛隊である限り自衛隊員は国民を守るための存在となりうる存在だからだ。しかし、憲法改編論者たちは憲法9条をかなぐり捨てて、自衛隊を軍隊にしようと言っている。自衛隊に際限なく武器を持たせよという。
自衛隊もそれら一部の政治家や国民の声に励まされたのか、自衛隊員たちは自分たちを軍人、自衛隊を軍隊と考えるようになり、平気でそれを口にするようになった。少なくとも1964年の東京オリンピックの頃、自衛隊員のオリンピック選手は自分たちを軍人とは言わなかった。21世紀に入った今、自衛隊の最高幹部OBの中には「クーデターをやってでも、自分たちのいうことを聞く政治家を守らなくては」などと口走る輩も出てくる始末である。
確かに今日の国際社会は平和とはかけ離れた状況を呈しているし、日本を取り巻く状況もきな臭くなっている。しかし、何度も繰り返すが平和は誰かに任せていて守れるものではない。わたし達一人ひとりが平和のために不断の努力をしてはじめて守られるものである。だからこそ、領土守るための、場合によっては国民の犠牲も厭わない軍隊は必要ない。少なくとも今以上に自衛隊に武器を持たせることは危険極まりない。武器を手にしたものはその武器を使いたがり、使うことによる結果などのことは考えもしないのだから。
⑤平和は一人ひとりが努力して築くもの
NHKの世論調査では戦争体験者は国民のわずか6%になったそうだ。今、声高に軍備増強だ、核抑止だと叫んでいる輩も皆、戦争を知らない。昔、田中角栄が言った「自分たち戦争を知っているやつがいるうちは日本は安心だ。戦争を知らない世代がこの国の中核になった時が怖い」という言葉を改めて思い出し、昨今のSNS空間の暴力化に戦慄している。
戦争犠牲者慰霊の日の今上天皇の言葉に、初めて「語り継ぐ」というフレーズが使われたことをメディアが取り上げている。その通りである。わたしも含めて戦争を知らない世代は、どんなに学習し、平和記念館を見学して想像をふくらませても、実体験者に語り継いでもらわなくては戦争の持つ悪魔性を膚感覚のものとすることはできない。しかし、その実体験者はもうすぐいなくなってしまう。各地で体験者の証言を映像化してアーカイブしようとしている。それこそが語り継ぐための必須の努力として評価したい。
⑥エピローグ
もう一度言うが、国防力強化、軍事力増強を声高に叫ぶ輩は、田中角栄の言う「戦争を知らない世代」であり、彼らをして戦争の持つ魔性に無知のまま、国の中核に招き込んでしまえば田中の言う「怖い」状況を現実のものにしかねない。
翻って、現在、日本国民の生命財産を脅かそうと虎視眈々と狙っている国は、果たしてどこだろう。中国?ロシア?北朝鮮?、わたしの考えは違う。狙ってはいないにしても、日本人の生命財産を顧みることなく、日本に惨禍を招きかねない一番危険な国は米国である。わたし達はその国の「核の傘」なる魔手に抱かれ、国中にかの国の軍隊を駐留させ、あまつさえ沖縄の同胞に戦後から今日まで、忍従を強いているのだということも忘れてはなるまい。