抑止力という虚構ー4

④あちら側とこちら側

 安全保障の基本は「あちら側とこちら側」を作らないことだとわたしは考えている。あちら側とこちら側を作るからこそ、お互いに「こちら側は善良な正義の徒なのに」と正義を振りかざし、「あちら側は邪悪な鬼畜」と悪人に仕立てて憎悪する。結果としてお互いがあちら側に「殺さなければ殺される」と言う恐怖を抱いてしまう。平和と安全保障を考える時、最も重要な衝動がここにあるとわたしは考えるのだ。

「あちら側とこちら側」を作るのは、常に独裁者のプロパガンダから始まる。19世紀の植民主義的領土欲であろうと、信教の違いによる行き違いによる宗教的軋轢であろうと、権力をひとり占めしようとする人間は、それを利用して自らの権力を確立し、確立した権力を維持し補強するために「あちら側」を作りたがる。二十世紀後半からは軍産複合体がそれを煽りながら、敵味方なく武器を売ることで、わが身の肥え太ることを画策する。

唐突だが「若者は簡単に騙される。何故なら、すぐに信じるからだ」という言葉を思い出して欲しい。これはアリストテレスの言葉だ。最近、SNS上で繰り返されている若い世代の言動を見るにつけ、わたしは背筋の凍る思いでこの言葉を思い出している。「中国共産党はけしからぬ。何をしかけてくるか分からぬ」「韓国はけしからぬ。竹島は自分たちのものだと言って実効支配したままだ」「ロシアはけしからぬ。北方四島を簒奪したまま返そうとしない」「北朝鮮はけしからぬ。ミサイルは飛ばすし、核兵器はちらつかせる」「日本も軍備を拡大して、抑止力を強化しないと、あちら側はいつ攻めてくるか分かったものじゃない」こんな言葉がSNS上を飛び交っている。

その風潮こそが日本の安全保障にとってもっとも危険なのだということを、わたしは声を大にして言いたい。戦争になれば結局、死ぬのは「あちら側」だけではない。こちら側も確実に死ぬ。現代の戦争は人民戦争、国民戦争であり、兵士と民間人、ましてやこどもや老人までも巻き込んで犠牲を強いるのだ。まして21世紀の今日、下手をすると一国どころか、全人類の存亡にかかわる事態にも発展しかねない。

旧約聖書の「創世記」11章1-9節にバベルの塔の物語が出てくる。「彼らは一つの民で、同じ言葉を話しているために、不遜にも天に届く塔の建設を始めた。このままではそれを成し遂げるかもしれない。だからわたし(神)は彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるようにしよう。そうして、かつては全ての人間が互いに理解するためにあった言葉に混乱が生じ、塔の建設を断念せざるを得なくなっただけでなく、諍いを始めるようになり、分断され離散した」というのが物語の顛末だ。

「バベル」はバビロニアもしくはバビロンと同義の地名だが、その言葉の意味は「混乱」ということだそうだ。この混乱は人間が不遜なことを考えたことに神がお怒りになったということだが、わたしはこの物語にいくつかの今日的な教訓を見出している。まず、「天まで届く塔」を「科学技術開発」と解釈してみた。産業革命、ダイナマイトの発明、数百万とも言われる化学物質、果ては核兵器と、わたし達は「天まで届く」科学技術を追い求めてきたし、これからも留まるところを知らないだろう。

それに神がお怒りになって「言葉が通じなくなって、互いに理解できないことから諍いと分断が始まった」と考えれば、19世紀後半に始まった産業革命以来の資本主義の席巻による分断、支配者と被支配者、格差拡大の根源的な原因が奈辺にあるか見えてくる。

旧約聖書はユダヤ教徒、キリスト教徒のイデオロギーの根幹をなすものではあるが、だからこそ、今日の世界的な混乱の根源的な原因が「相互不信」であり、それを解消するのは「相互理解」だと解っているはずだ。もちろん、「神」が企んだ「混乱」であるから一朝一旦に解消できるものではない。故に「そんな理想論を語っていて、攻め込まれたらどうするんだ」と国防論者たちは声を荒げる。しかし、では軍事力を増大させることが、抑止力や安全保障になりうるのかとの問いに明確な答えは持ち合わせていないようだ。単に「あちら側はいつ攻めてくるか分からない。手を出そうものなら倍返しになると見せつけなくてはならない」と言い、あとはこぶしを突き上げるばかりだ。そんな、軍事力の見せつけ合いなど実は何の効果もない。なぜなら、「あちら側」に脅威を感じて「こちら側」が軍備を増強すれば、「あちら側」は「あちら側」の「あちら側、つまり「こちら側」に脅威を感じて軍備を増強するだけのことであり、その連鎖は無限に続くことになる。

脅威があるとしたら、その脅威を科学的に分析することがまず抑止力の原点だ。脅威を「精神衛生的な恐怖心」にすり替えることくらい危険なことはない。正に「あちら側は悪魔」「あちら側は何をしかけてくるか分からない」というだけでは、安全保障など成り立たないし、外交や国際協調という努力を死物化させてしまうだけだ。もちろん、ウクライナに対するプーチンの言い分、ガザでの非道を繰り返してきたネタニエフの言い分は、どちらも「あちら側」を全否定しているからこそ、世界中からの非難を浴びているという悲しい現実があることは承知している。

ウクライナやガザだけでなく、世界中であちら側とこちら側の罵りあいから戦争や紛争、果てはジェノサイドになってしまった事例に事欠かないことも理解している。しかし、それでも例えば旧ユーゴスラビアの一時の混乱と今日の平穏、ルアンダの起こった惨劇と現在の平穏は「悲劇があったからこそ、今の安逸がある」のではなかろう。悲劇が生じる前に相互に理解があれば、あの悲劇を経ずに今の平安を手に入れられたはずである。

日本の周辺においては竹島、尖閣諸島、北方四島の領有権は未解決だし、朝鮮半島の分断や台湾問題がある。しかし、仮に時間はかかっても武力に訴えることなく解決出来る道を探るべきだ。どんなことがあっても日本人の命を失う危険にさらす訳にはいかないはずだ。台湾有事にしても、今にも起きそうだと不安をあおって、だから軍備だ日米安保体制強化だと騒ぐ輩もいるが、果たして中国は台湾にホット・ウオーを仕掛けるかというと、その可能性は限りなくゼロに近い。確かに国共内戦以来の未解決事案ではあるだろうが、一方で台湾は中国にとって「金の卵を産む鵞鳥」だ。その「金の卵」を産む産業を武力侵攻によって破壊してしまえば、例え太平洋の西の小島を手に入れたとしても、代償はどれほどのものかということを、中国指導部が理解していないはずはない。現に台湾本島からすれば、目と鼻の先にある金門島でさえ、中国は手を出そうとしてはいない。

ただし「限りなくゼロに近い」であって「ゼロ」ではないと言わざるを得ないのは、軍産複合体の手先となって、中国の逆鱗を逆なでしたがる米国のマッチポンプ政治家の存在を念頭にせざるを得ないからである。むしろ、そのマッチポンプの言うことと仕業を、本気で正義の味方、日本の味方と信じていていいのか、わたし達はもっと冷静に考えなくてはいけないところに来ているのだが、残念ながら高市政権の誕生によって、「日本の若者を米国の先兵とする」危険な未来に、高市早苗が言うように「確実な前進」が一歩進んでしまった。

カテゴリー: 抑止力という虚構 | 抑止力という虚構ー4 はコメントを受け付けていません

別府泉都メンタル・ラプソディー

カテゴリー: 別府泉都メンタル・ラプソディー | 別府泉都メンタル・ラプソディー はコメントを受け付けていません

抑止力という虚構

③抑止力とは何だ?

 抑止力という言葉はよく使われる割に、その本来の意味についてはあまり語られることがない。改めて抑止力(deterrence)という言葉そのものが持つ意味について考えてみたい。

抑止力は辞書的には「何かをしようと思っている者に、それを思いとどまらせるための力」ということになる。さらに「相手に当方にとって有害な行動を思いとどまらせる力やそれを期待することができる何らかの作用」のことである。

 これを国家間の安全保障分野に当てはめると「ある国が他の国に軍事力を行使することを思いとどまらせる力」ということである。軍事的攻撃を受けた被攻撃国が攻撃国に対して直ちに報復攻撃を行うことができると見せつけることで、攻撃もしくは侵略しようとする国が、自らの攻撃または侵略という行為に見合う利得は得られない、あるいは反撃によってかえって自国に多大な損害を与えられるかもしれないと認識させて、攻撃を思いとどまらせるということである。

 従って、一方の国が単に「いつ攻めてこられるかわからない」という恐怖心から軍備を拡大すれば、もう一方の国もまた「いつ攻めてこられるかわからない」という恐怖心を募らせて更に軍事力強化をすることになる。そうやって、お互いに果てしのない軍拡競争を行うことで、実は双方ともに軍需産業以外の産業の成長を阻害し、国全体としての力「国力」を減退もしくは弱体化させることになりかねないということでもある。

 この辞書的な理解による(ということは古典的な抑止力ということだが)抑止力が成立するためにはまず、お互いが冷静であることが必要である。精神病的な恐怖心ではなく、冷静で論理的な恐怖心があって(そんなものが存在するとしての話だが)はじめて相手にとって受け入れ難い報復をする能力と意志を持っていることを明確に、信憑性を持って伝達し理解させることで、相手に攻撃させないという抑止力の目的を達成することになる。

 要するに抑止力とは「お互いに相手に恐怖心を与え」ながら、「お互いに報復の脅しをかける」ということである。従って安全保障を軍事に頼るということは、その軍拡競争は常に相手より強く、あるいは兵力・武器を相手より多くという無限奈落に落ちるようなものになる。そうならないためには、どちらかが冷静に「我に帰リ」「お互いの立場を理解」することが必要であり、それこそが最も有効で恒常的・持続的な抑止力になるはずである。

 もちろん「そうなっては困る」という輩が存在するからこそ、古代ギリシャのポリス同士の戦争以来、人間の歴史は「軍事的抑止力の構築」と「その破綻」の繰り返しであったのだ。その輩とは⑴派遣国に肩を並べようとする新興国家⑵国民を押さえつけておかなくは安心ができないという独裁者⑶軍産複合体の恩恵を受ける立場にある一部の軍人や企業などであり、多くの場合この三つを同時に体現するとわたしは考えている。

 ⑴の覇権国と覇権国に肩を並べようとする新興国家の関係は、古代ギリシャのアテネとスパルタと、現代の米国と中国の関係に似ている。⑵の独裁者の場合、国民を抑え込むために外に敵を作り、その敵の悪だくみを抑止する、あるいは撃破するためにと言って国民に我慢を強いる。⑶は戦争景気という言葉があるように、兵器産業、軍需産業も産業として一時的には間違いなく国のGDPに貢献する。

 ところで日本の軍事費は2024年ではGDP(国内総生産)の1.4%でした。日本の防衛費は長らくGDP比1%を上限としてきたが、極東地域の国際情勢に対する抑止力向上を理由に2023年度予算でこの枠が撤廃され、同時に政府(岸田政権)は2027年度までに防衛費と関連経費を合わせた額をGDP比2%まで増額すると表明している。2025年度の防衛費は総額9兆9千億円、対GDP比1.8%まで増加の一途をたどっている。ちなみに国防費のGDPに占める割合の世界平均は2.2%、NATO加盟国の平均も2.0%で、トランプは日本を含む同盟諸国に対し、GDP比5%まで引き上げるよう要求している。

 2023年度の米国の軍事費は9160億ドルでGDP比は3.4%である。それがトランプの同盟各国に対する国防費の対GDP比3%~4%という要求の根拠になっている。 しかし一方、同年の世界の軍事に関する総支出に占める米国の割合は37%である。中国でさえ同年の軍事費は(推計)2960億ドル(GⅮP比1.7%)、世界の軍事に関する総支出に占める割合は12%である。冷戦時代の東側の盟主であったロシアの場合でも、ウクライナに侵攻した2023年、正に戦時中の軍事費は1090億ドル(GDP比5.9%)世界の軍事に関する総支出に占める割合は4.5%である。如何に米国の軍事産業が突出して巨大であるか実感できる。

 米国の軍需産業が巨大化した歴史的経緯は専門家の解説に委ねるとして、GDPに占める割合がわずか3.4%とは言え、米国の主要産業としての印象が強い農林水産業のGDPに占める割合約1.1%(2025年1月時点)の3倍である。

 武器・弾薬というものの製造は、いくら抑止力のためと言い募ろうと、それを実際に使用することを前提としている。演習に使ったり、使用期限が来たり技術革新で旧式になったりして処分・廃棄される分は全体から見ると少ない。過剰な分は輸出するか、どこかに保管することになるが、輸出先も同様に保管の場所には限界があって、やがて在庫でいっぱいになる。いっぱいになれば生産を中止すればいいものだが、それでは軍需産業は成り立たないから、何とか在庫一掃しようとその方法を考える。

 武器と名の付くものと、そのための弾薬は、人を殺すためと構造物を破壊するために製造される。その在庫を一掃するために考えられるのは「在庫一掃大処分セール」などはない。それこそが戦争である。米国が一定の間隔で戦争をしてきた陰には、軍需産業発展の経緯がぴったりと張り付いているのである。第二次世界大戦以降米国が直接当事者として戦ったものだけでも多くの戦争があるし、抑止力向上のためと称して米国製の武器を大量に供与した結果、摩擦や内圧が嵩じて爆発する形で起こった局地戦争や内乱もあった。

 それはまた冷戦期のソヴィエト連邦(当時)でも同様であった。冷戦(cold war)期とは言われてはいても、米ソのはざまで代理戦争(hot war)を戦った多くの国々があった。冷戦とは「抑止力の見せつけ合い」であり、それが嵩じると地球上のあらゆる人間を破滅させるのに十分な核兵器の保有にまで突き進んでしまったのだ。抑止力と言うのは自国民の生命と財産を守るために発揮されることを前提としているはずなのだが、その抑止力はいつの間にはまるで別の生命体のように自己増殖を始めとどまることを知らないものになる。抑止力のために国民は耐乏生活を強いられるだけでなく、言論その他の自由さえ奪われて,揚げ句に、全人類を道連れに破滅することになる。

 そのことに気が付いたのが、実は1985年から1991年までソビエト連邦のリーダーだったミハエル・ゴルバチョフだ。彼は国内で「抑止力」を錦に御旗にして自己肥大を続けていたソ連型軍産複合体のお陰で、国民が貧困と不自由に苛まれていることに気が付いた。その後の彼の矢継ぎ早の「ペレストロイカ(共産党一党独裁の放棄と民主化)」「グラスノチ(情報公開)」「核軍縮(中距離核戦力の全廃条約)」という3つの大改革によって世界は冷戦期を脱し、それまで世界中で数万発あった核爆弾を少なくとも世界総計1万数千発まで減らしている。彼を暗殺しようとする試みもあったが、それが奈辺から出た意図なのか未だに謎なのだが、彼が死ぬことによって誰が利益を被るかを考えれば、大方予想がつくというんのだ。ともあれ、彼はその危機を幸運にも乗り越えて1990年にノーベル平和賞を受賞するとともに、政界引退後も2022年8月30日に享年91歳で亡くなるまで世界中で講演活動などを続けた。

 彼がノーベル平和賞を受賞した最大の功績が「抑止力」が軍産複合体の生み出した虚構だということを世に知らしめたことにある。彼の言葉に「こんな暮らしを続けるわけにはいかない」と言うのがあるが、それこそが抑止力最優先の考え方に対するゴルバチョフの本音だったのである。

カテゴリー: 抑止力という虚構 | 抑止力という虚構 はコメントを受け付けていません

「抑止力」という「虚構」

②憲法九条「不戦の誓い」

 自民党総裁に高市早苗が選ばれた。彼女は憲法改正、中でも九条改正をライフラーク、究極の政治目標だと高言してきた。彼女にとってそれは岸信介・安倍晋三の怨念の系譜につながるものであり、もはや政治理念やポリシーの問題ではなく、異界にいる岸・安倍との律法的契約のレベルとして揺るぎない信念となっているようだ。

 しかし、本当に平和憲法は、あるいは憲法の前文や九条は彼女たち極右勢力に目の敵にされなくてはならないものなのだろうか。わたしは九条こそわたし達にとっての最大最強の抑止力だと考えている。抑止力を考えているというのに、日本国憲法について、中でも第9条が出てくることに戸惑うかもしれないが、わたしは日本国と日本人が抑止力を考える時、平和憲法とその憲法の九条こそが抑止力であり、だからこそ日米の軍産複合体は右翼思想と中国脅威論を持ち出して、今の憲法では国を守れないと、躍起になって日本を戦争のできる国にしようと考えているのだ。

 しかしよく考えてみると、この憲法があったればこそ、わたし達は敗戦後80年、米ソ冷戦のはざまにありながら、戦争に巻き込まれることなく過ごしてこれたのだ。これまで日本が米国の「軍事的同盟国」として戦争に巻き込まれる危険性が高まった時期は実は何度もあった。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、その全てにおいて日本は「参加したいのは山々だけど平和憲法があるので直接参加することは出来ない」と断ることが出来、直接的な介入をせずに済んできたのだ。

 わたしは別に憲法を金科玉条とも、石に刻まれた「モーゼの十戒」とも考えていない。時代の変遷に伴う社会環境の変化や国際情勢に伴って変えるべきことは変えなくてはならないと考えている。しかし、だからと言って自民党のネオコンや米国の軍産複合体の手先のような輩の「改憲論議」には絶対反対である。

 憲法と法律の違いについて、法学者でも弁護士でもないわたしが知ったかぶりをすることは出来ないが、一つだけわたしが理解していることは「法律はわたし達を律する規範」であり「憲法はわたし達が国家権力を縛る規範」であるということだ。従って国家権力の側から改憲を言い出すこと自体、わたし達が権力の身勝手を許さないためのせっかくの縛りの力を削ごうということだと考えている。

 国防力アップという名目で財源問題の埒外に置かれ、限りなく軍拡に突き進もうとしている現状に照らして考えると、「こんな物騒な世の中なんだから、法律を改正してわたし達にも拳銃を使用することが出来るようにしてほしい」と言いだしたらどうだろう。「クマが多くておちおちキノコ採りにも行けない。誰でもライフル銃を携行できるようにして欲しい。猟銃を使えるようにして欲しい」と言いさすかもしれない。もし本当にそうなったら日本はどんな国になるか、今の銃社会の米国を見れば論を待つこともない。

 同様に改憲論者が「近隣諸国がいつ攻めてくるかもしれない物騒な情勢なんだから、憲法を改正して日本国も先制防衛攻撃ができる(戦争をする)ようにならなくてならない」「隣の国の指導者たちはクマより凶暴で、どんな無理難題を言い出すか分からないし、いつ何時、日本を攻めてくるかもしれない。そのために日本は反撃可能な武装をしなくてはならない」と言っているのだ。

 しかも、実は憲法九条は既に風穴を開けられてしまっている。湾岸戦争で「ショウ・ザ・フラッグ」と言われて多額の戦費を提供し、イラク戦争では「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」と言われて兵站と後方支援を担ったにも拘らず、いずれの場合も米国からも当事国からも感謝されなかったということを、まるでトラウマのように抱え込んでしまった安倍晋三によって、憲法を踏みにじる法案が二つも成立してしまった。

 それは第2次安倍政権時代の2015年9月に制定された「平和安全法制整備法」と「国際平和支援法」である。この二つの法律は名前にこそ「平和」という言葉が使われ、他国からの攻撃を抑止するための法律だとしているが、正しく「戦争を可能にする」法律である。従って明確に憲法違反である。国会での圧倒的多数を背景にした権力者安倍晋三による憲法無視であったのだ。この日以来、憲法によって守られてきたわたし達日本人は権力者の、あまつさえ米国の意向次第で戦争に駆り出され、殺し殺される危険の元に暮らさざるを得なくなっていると言える。右翼勢力が過半数を失っている今こそ、この憲法違反の2法案を廃案にするべきだが、悲しいことに先の参議院選挙でも与野党ともに、その論議は全くなされていない。

 わたしは旧明治憲法においても同じことがあったと考えている。それこそが「統帥権」である。それによって日本が破滅の道を突き進むことになった。明治憲法が出来るまでは軍政と軍令は1869年(明治2年)に設置された兵部省が所管していたが、文官と武官が未分化だったため、軍政も軍令も武官でなければ行使できないという解釈は無かった。1889年(明治22年)公布された大日本帝国憲法(明治憲法)に先立って1885年(明治18年)に内閣制度が施行されるようになった時、内閣に属する陸海軍大臣が誕生した。内閣に属するということは天皇に信任された総理大臣の指揮命令下にあるということだ。しかし、憲法制定に反対する一部の元老たちを宥めるため、同憲法の11条にある「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」を「天皇が陸海軍を直接統帥する統帥権」と解釈することで取引をした。この解釈によって内閣から独立した機関=統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)を認めることになったのだ。つまり憲法の制定と同時に、憲法に従う必要のない「統帥部」もなるものも誕生したことになる。立憲君主制とは憲法によって王権を縛っておくということだ。その王権を縛るために存在する憲法の、埒外にあって縛られることはないという解釈が、その後の陸海軍の独断専横を許すことに繋がって行った。

 さらに、昭和初年になると軍部の台頭に伴い、さらに同憲法12条「の天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」とある部分も軍部の都合のいい様に解釈するようになった。「こと軍事に関する限り予算や財源捻出についても、天皇の権限を輔弼するのは内閣ではなく、軍令部である」となったのである。明治憲法には書かれていない「統帥権」が、天皇の名を騙ることによってどんどん拡大解釈され、その後の日本の破滅を導くことになったことは忘れてはなるまい。

 大日本帝国憲法(明治憲法)であれ、日本国憲法(新憲法)であれ、権力を縛り上げておくことが国民にとっての最も有効で持続可能な「抑止力」である。どんな小さな兆候であっても権力の側がそれを突き崩そうとする試みを許してしまえば、国家も国民を無事では済まなくなるということを、わたし達は肝に銘じておかなくてはならない。あの「ワイマール憲法」という理想を謳った憲法下から、ヒットラーのナチズムが生まれたこともまた、歴史の教訓としてわたし達は忘れてはならないとわたしは考えている。

カテゴリー: 抑止力という虚構 | 「抑止力」という「虚構」 はコメントを受け付けていません

「抑止力」という「虚構」

①ダモクレスの剣

 「抑止力」について考える時、どうゆうわけか「ダモクレスの剣」というエピソードを思い出す。

「紀元前4世紀初頭、シチリア島のシラクサに賢明で心やさしいのディオニュシオス2世と言う王がいました。ある日、ディオニュシオス王は華やかな宴席を開いて、王の寵臣であるダモクレスを自分の玉座に座ることを許しました。ダモクレスは喜んで玉座に座るのですが、ふと頭上を見上げると、髪の毛1本で吊るされた鋭い剣が自分を狙うようにぶら下がっています。それに気づいたダモクレスは慌てて逃げ出しました」

 ディオニュシオス王は王の境遇をうらやむダモクレスに、王者の地位がいかに危険と隣り合わせであるかということを言葉ではなく体験として伝えたというのが、ダモクレスの剣の言い伝えのもとになっている。この言い伝えは21世紀の今日でも権力者に充てはまる話のはずだ。しかし今、髪の毛でつるされた剣の下で暮らしているのはわたし達の方である。ディオニュシオス2世はそのことを知りながら平然とその場に座り続けていたのだが、わたし達はその剣の存在を知らないままに、あるいは知らぬふりをして暮らしている。

 そのわたし達の頭上に髪の毛1本でぶら下げられている剣が、核兵器であり、軍産複合体によって止むことを知らずに作り続けられる通常兵器だ。そしてその髪の毛ほどの細い糸とは、ディオニュシオス2世の足元にも及ばない身勝手な権力者たちの気まぐれな感情であり、しかもその糸はますます細くなっている。

 実はこのダモクレスの剣の話は1961年の国連総会での演説の中で、ジョン・F・ケネディが話した言葉である。彼自身は暗殺されるという形で、言葉の意味をわたしたちに思い知らせてくれたのだが、

「地球の全ての住人は、いずれこの星が居住に適さなくなってしまう可能性に思いをはせるべきであろう。老若男女あらゆる人が、核というダモクレスの剣の下で暮らしている。世にもか細い糸でつるされたその剣は、事故か誤算か狂気により、いつ切れても不思議はないのだ」というものだった。

 プーチンとトランプの登場だけでなく、日本の現状を見るにつけても、ケネディの予言めいた警告は日々刻々とその現実味を増していることに、わたし達はもう少し考えを及ぼさなくてはなるまい。

 米国にはケネディがいたが、ソ連にもミハイル・ゴルバチョフがいた。ゴルバチョフが国連広報センターの機関誌『UNクロニクル』の国連創設70周年記念特集号(2015年)に寄稿した文章の内容は

「私たちは(中略)核兵器の使用は許されないという原則を最優先すべきです。核保有国が近年になって採用している軍事政策や主張の中には、核戦争が許されないことを強調した1985年の米ソ共同声明の前の時代に後退している文言が見られます。「核戦争に勝利はなく、決して起こしてはならない」ことを再確認するために、おそらく安全保障理事会のレベルで、改めて声明を出さねばならないと私は確信しています」というものだった。

 彼は1985年から1991年までソビエト連邦共産党書記長を務め、1988年から1991年のソ連邦崩壊までは、彼自身が推し進めた「ペレストロイカ=再構築」によって役職名は最高会議幹部会議長、連邦最高会議議長、連邦大統領と変遷したが同国の国家元首であり続けた。

 ゴルバチョフの有名な言葉の一つに「こんな生き方はもうできない」と言うのがあるが、「こんな生き方」とは彼自身がダモクレスの剣の下で生きることではなく、当時のソヴィエトの人々を滅ぼしかねないだけでなく、世界全体を破滅させかねない核兵器というダモクレスの剣の下で生きることを言っていた。彼の推し進めた「ペレストロイカ」をそれまでの生き方を変えるための「革命」的な試みだったと言える。

 彼のお陰で少なくとも、その当時世界中にあった数万発の核爆弾は1万数千発まで削減されたし、1987年には米国との間で中距離核戦力全廃条約(INF)を結ぶに至っている。1990年にノーベル平和賞を受賞しているが、その価値は十分にあったとわたしは今でも考えている。

 そしてこの1960年のケネディと1980年代のゴルバチョフの思いこそが、本当の意味での「抑止力」であると、わたしは信じている。翻って今声高に「抑止力」と言い募る人々の欺瞞と、その裏にある米国の軍産複合体のプロパガンダを信じる人々の増えていることにわたしは恐怖するばかりである。頭上を見上げてみよう。わたし達の頭の上にマッドマンたちの気まぐれな感情という細い糸でぶら下げられた剣がわたしを狙っていることに気づくことが出来るかも知れない。

カテゴリー: 「抑止力」という「虚構」 | 「抑止力」という「虚構」 はコメントを受け付けていません

抑止力という虚構

プロローグ

「安全保障」というとすぐに「抑止力」というように、まるで定型句のように叫ばれるのだが、わたしはそれが納得できない。「「抑止力」ということが軍拡を推し進めようとする輩の「方便」や「レトリック」どころか、まったくの虚構でしかないと、わたしは考えている。安全保障と抑止力がイコールであってはいけないとも考えている。

国であれ郷土であれ、そこを守るということが安全保障ということなのだが、国や郷土を守るのは軍事力だけではないはずだ。国際親善、善隣外交はもちろん、国土保全のための防災や食料安全保障も安全保障の必須アイテムであるはずだ。

抑止力ということになると具体的に敵や仮想敵を意識した上でなくては発想すらできないのだが、では日本にとっての敵や仮想敵は誰なの奈道。国民の福利厚生や生活安全のためのインフラストラクチャ-には財源問題を声高に言い、軍拡のための防衛予算は天井知らずに増額している現下の日本の政治家たちは、その理由として「抑止力」を持ち出すが、彼らに「では敵はどこの国なのか」と聞いてみたい。保守系とか自民党の補完勢力とか言われる野党議員からは「核を持つことが安上がりな抑止力になる」などという根拠もなければ、荒唐無稽としか言えない発言さえ聞こえているのだ。

そもそも「抑止力」というのは「はったり」と「虚勢」の張り合いのことであり、「これだけ脅せば相手はビビッて攻めてこないだろう」と期待することだ。「何かやったら、ただじゃすまないぞ」と脅すことでもある。また、相手より多くの兵器を持つことで恐怖心を抑え込もうとする病的なほどの恐怖心の現れでもある。

その一方で、抑止力の前提となる安全保障を脅かす相手は「正義の通じない悪の枢軸」であり、「何を仕出かすか分からない狂人」と決めつけているのである。少しでも「相手はどう思っているだろうか」ということに思いを馳せることが出来れば、相手もまた自分たちを「悪の枢軸」とも「狂人」だと決めつけて恐怖しているということ気付くはずだ。あるいは気付いているのかも知れないが、いったん動き出した武器生産システムを止めることが出来ず、軍産複合体を形成して武器を生産し続け、自分たちの大事な国を人殺しのための道具で溢れさせているのかもしれない。

マッドマンの系譜と眷属について考えると、それがあまりにも21世紀の今日の世界情勢や登場人物に通じているため怖くなってきた。そこでマッドマンについての人物論考を少し休んでも、「抑止力」という軍産複合体とそのしもべとなり下がった政治家たちの「合言葉」について考えてみたい。

カテゴリー: 「抑止力」という「虚構」 | 抑止力という虚構 はコメントを受け付けていません

マッドマンの系譜ー5

④ヒトラーの眷属たち

カテゴリー: マッドマンの系譜 | マッドマンの系譜ー5 はコメントを受け付けていません

マッドマンの系譜ー4

③ヒットラーの友人たち

カテゴリー: マッドマンの系譜, レオン・マシューの管見耄言 | マッドマンの系譜ー4 はコメントを受け付けていません

マッドマンの系譜ー3

②ウラジミール・プーチン

カテゴリー: マッドマンの系譜 | マッドマンの系譜ー3 はコメントを受け付けていません

マッドマンの系譜ー2

①アドルフ・ヒトラー

 歴史上もっとも有名なマッド・マンは、アドルフ・ヒトラーであることに異論はないだろう。従ってマッドマンの系譜を考えるとなれば、この男から始めるのは当然ということになる。ヒトラー自身の著作にもっとも有名な「我が闘争」がある。この本はのちにベストセラーになるが、実は彼が1923年に刑務所に収監されている時に執筆したものだ。第1巻は1925年、第2巻は1926年に出版されている。

 ヒトラーと言えば、彼のあのオバージェスチャーの演説とユダヤ人迫害を思い浮かべてしまう。しかし、彼を調べていると彼の意外な側面に面食らう。その第一が彼が個人的に所有していた蔵書の数である。先日放送されたNHKのドキュメンタリーによると、その総数は1万6千冊に上るそうだ。ナチスドイツの敗戦後、ヒトラーの蔵書は多くが戦利品としててんでに持ち去られて散逸してしまったが、米国に保管されている一部だけでも1300冊近いという。彼のあの演説の姿からは想像もできないのだが、ヒトラーはベルリンの官邸でもアルプス(オーバザルツブルク)にあった山荘でも、一人静かに読書にふけることが多かったという。

 静かに読書することを愛したヒトラーと、暴力や戦争、ホロコーストとはイメージとしては結びつかない。しかし、ヒトラーの場合、読書することによって強固なストラテジーとしてのドイツ民族至上主義とナチズム、ユダヤ人に対する憎しみを生み出していったのだ。

 ヒトラーの蔵書の中で特に注目すべきは、ディートリヒ・エッカートの「ルターと利子」、ヘンリー・フォードの「国際ユダヤ」、そしてマディソン・グラントの「偉大な人種の消滅」である。中でもヒトラーの思想に最も大きな影響を与えたのは、ディートリヒ・エッカートだとされている。エッカートは反ユダヤ主義者で、1919年に発表した論文「ルターと利子」で「悪魔のようなユダヤ人が利子率を作り出したが、やがてドイツ民族が第三帝国を実現して救済をもたらす」と論じている。ナチスドイツが第三帝国を標榜するようになった根源がここにある。もっとも、ヒトラーの反ユダヤ主義に直接火をつけたのはヘンリー・フォードの「国際ユダヤ」で、そのことはヒトラー自身が「我が闘争」の中に書いている。フォードは1920年から1922年にかけて新聞で激烈な反ユダヤ主義を主張していた。

 ヒトラーからエッカートやフォードを通して、さらに彼の思想の根源をさかのぼって行くと、意外なことにロシアの作家フョードル・ドストエフスキーと、ノルウエーの劇作家ヘンリック・イプセンに行きつく。あの「罪と罰」のドストエフスキーであり、あの「人形の家」のイプセンである。1873年にドストエフスキーは「ロシア民衆が飲酒で堕落したままであれば、ユダヤ人たちは民衆の血をすすり、民衆の堕落と屈辱を自分たちの糧とするであろう」とし、「農村はユダヤ人に隷属させられた乞食の群れとなるとなる」と警告している。国家社会主義ドイツ労働者(ナチ)党の前身ドイツ労働者党の創設者の一人であったイプセンは、同じ年、中世キリスト教文明を「霊の帝国」、古代ギリシア思想文明を「肉の帝国」とし、この二つをあわせもった理想国家を「第三の帝国」と称している。イプセンが登場したので、ではその200年前のシェイクスピアはどうか。ヒトラーの蔵書に中にあったかどうかは分からないが、シェイクスピアには「ベニスの商人」があり、登場する「肉の担保」を要求する金貸しシャイロックの姿に象徴されるように反ユダヤ主義的作品とされている。キリスト教においてはカトリックだろうとプロテスタントであろうと、ユダヤ人を人種差別することは言わば当たり前だったのだ。そのヨーロッパの底流の影響を受けたエッカートが前述の論文を書き、エッカートに庇護された愛弟子がアドルフ・ヒトラーである。

 もう一つヒトラーに人種思想的影響を与えた本に「偉大な人種の消滅」がある。ヒトラーはこの本を「わが聖書」と呼んで愛読していたという。この本のメインテーマである北方人種説はヒトラーという一読者によって「人類がその優良な北方人種に導かれ淘汰されるべき」とする支配人種説へと発展を遂げた。この支配人種説がアーリアン学説と並んで国家社会主義ドイツ労働者党およびナチス・ドイツの人種政策の根幹となっていった。もっともこの時の北方人種説もア-リアン学説も学問的には間違っている。現代においては人種差別のために生み出されたプロパガンダ学説とされ学説そのものが否定されているア-リア人をどんなに拡大解釈しても、ゲルマン人であるドイツ人と同一視されることはない。

 マッドマンの代表格であるヒトラーでさえ、突然歴史の舞台に登場したわけではないことに今更ながら恐怖してしまう。ヒトラーでさえ古代ローマ帝国から連綿と続くヨーロッパ社会のひずみと社会の陰の部分から、生まれてくるべくして生まれた奇胎であり、鬼胎であったのだ。そしてまた、ドイツの片田舎から富を求めて米国に移住した男の孫が、白人至上主義を標榜するトランプであることにも移民社会、人種のモザイク社会としてここまで来たはずの米国社会の底流を流れる因縁を感じざるを得ない。

カテゴリー: マッドマンの系譜 | マッドマンの系譜ー2 はコメントを受け付けていません