わたしの政策談義 10.防衛について(2)

 繰り返しますが、究極の防衛とは攻撃することも攻撃されることもない状態を保つことです。それこそが平和を維持するということだとわたしは考えます。だからこそ平和を維持するということは、並大抵の努力ではできません。しかも一度平和の状態が破綻、つまり戦争が始まってしまえば殺戮が殺戮を呼び、非人間的な憎しみと果てしない殺し合いが続くことになることを、わたしたちはウクライナでの出来事によって、改めて目の当たりにしているのです。

 どんな国の人々であれ、国民、市民、一般人と呼ばれる人々は、朝起きて、その日一日生ていることに喜びと誇りを感じる仕事や役目に就き、一日の終わりには心地よい疲労感と共に愛する家族との団欒を過ごし、心安らかに眠りに就くという日々の繰り返しだけを望んでいます。ところが、その日常の連続の中で、忘れがちなほんの少しの注意を怠ると、どんな政治体制も為政者の下でもすぐには気が付かないほど目に見えない政治的な失敗や混乱によって、日々の暮らし向きが徐々に徐々に悪くなっていきます。そのことに気が付かなかったり、あるいは気が付いても声を上げたり、具体的な行動をとることをためらったりしている隙に、その失策や混乱を作り出した権力者は自分の地位や力を守るために、その失敗を糊塗し自らの失敗によって生じる混乱の分だけ権力強化を図ろうとします。その目に見えないほどの変化が嵩じて、やがて権力者は自らに絶大な力を集中させなくてはならなくなり、その力を維持するために平穏な日々を希求しているはずの国民、市民を統制するようになります。その行きつく果てが戦争なのです。権力者は自分の権力への内からの攻撃を外へと逸らすために外に敵を作ります。そして権力者自身も自分の作った敵の存在に引きずられて、結局は戦争という政治の最も愚かしい一形態を選択することになるのです。

 戦争は平和で安定した生活から、突然生まれるものではありません。わたしたちが安定した安穏な生活を持続させるために、多くの矛盾や疑問を無視したり、気が付かないふりをしている間に、権力者たちによって戦争への道へと導かれ、気が付いた時には抗うこともできずに、自分や自分の大切な子どもたちを戦場に送ることになるかも知れないのです。権力者と言いましたが少なくとも民主主義の国においては、わたしたちはわたしたちの代表としての為政者を選ぶことが出来ます。逆に言えば、権力者はわたしたちが作り出しているのです。だからと言って油断が出来ません。ヒトラーはワイマール憲法という当時としては最も進んだ民主主義を具現化していた憲法を持つドイツで、最初は曲がりなりにも民主的な手続きを踏んで生まれました。ウクライナに侵攻したプーチンにしても、彼もまた選挙によって選ばれて大統領になったのです。

 プーチンは反ナチズムを標榜してウクライナに攻め込んだのですが、ロシア国内でさえ、21世紀の今日、ナチはどこにいる。ヒトラーは誰なのかと問われれば、多くの人がプーチンを思い浮かべることでしょう。もちろん今のロシアでそれを口にすることは、命に係わるほど危険なことです。その危険性こそがロシアが専制国家であるということの証左に他ならないのです。

 もっともその国の軍隊が自国民に銃口を向けるということは、めずらしいことではありません。仏教と微笑の国ミャンマーは勿論、しょっちゅう内戦が起こっているアフリカ諸国でもそうです。本来軍備は自国防衛のためのはずですが、軍隊が暴力組織である以上本末転倒してしまう宿命にあるのです。

 さて、国の防衛を考える時日本の場合、自衛隊を抜きに語ることは出来ません。自衛隊は1950年、つまり日本がまだ占領下にあった年に占領軍である連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の政令によって、準軍事組織として設置された警察予備隊を起源としています。その警察予備隊は日本が独立を果たした1951年の翌年1952年に保安隊という名の組織に改編され、さらに2年後の1954年に陸上自衛隊となりました。同時に保安隊と同時に編成されていた警備隊が海上自衛隊になりました。

 ではGHQがなぜ占領下の日本に準軍事組織を編成したのでしょう。それは朝鮮戦争の勃発によって、日本の治安維持のためということで日本人が暴動を起こさないよう見張っていた米国の治安部隊を朝鮮半島に送ったため、日本の治安が心配になったためなのです。日本人が暴動を起こさないよう見張るために置いていた軍隊の代わりに、それを日本人にさせようとしたのが警察予備隊なのです。つまり、初めから外からの攻撃に備える防衛のためではなく、日本国内に暴動などが起こった場合には日本人によって日本人を鎮圧するためだったのです。いざとなれば日本人に向けるためにM1ガーランド小銃と特車と呼び名を変えた戦車が支給されました。

 わたしたちは巨大災害などの時の自衛隊の真摯で献身的な活動を見ています。だからこそわたしたちは日本国民のための自衛隊であると信じていますし実際そうでしょう。しかし、自衛隊はその生まれた時から、実はいつでも日本国民に銃口を向けるためという宿命を背負って生まれているのです。しかも、朝鮮戦争下に急いで準軍事組織を編成するために、旧軍の将校、下士官を多く採用しています。旧軍の生まれ変わりではないまでも、その影を引きずっていること変わりはありません。

 長々と書いてきましたが、だからこそ、国の防衛とは何か。わたしたちの平和な暮らしを守るということは何かと言えば、まず、わたしたちが自分の国の為政者、権力者から目を離さないことです。日々の暮らしのその先に、少しでもきな臭さを漂わせる政治に対して「ノー」を突き付けることなのです。以下の日本なら沿う言葉を発することに勇気はいりません。必要なのは自分と自分の愛する人々のほんの少し未来を見据える目と、自分のその目を信じて行動することだけなのです。

 そんなことを言っても「隣国が攻め込んできたらどうするのか」と思うかもしれません。北朝鮮がミサイルを打ってきたら黙って打たれるままでいいのかと声高に言う人もいます。そのためにこそ、わたしたちは有能で信頼のおける政治家を選び、支えなくてはなりません。世界中を見渡すと、戦争を引き起こさないために必死の思いで外交という政治の大切な機能を果たそうとした政治家はたくさんいます。日本にそういう政治家がいないはずはないのです。もう一度言いますが、戦争は始まってしまえば、取り返しのつかない悲惨な状況が果てしなく続くことになります。しかも、戦争は政治・外交の一形態でしかありません。つまり常に戦争以外の政治と外交を選択することは不可能ではないのです。

 この国を戦争のできる国にしてはなりません。戦争のできる国であると、戦争をしたがる勢力は権力者以外にも必ず出現します。太平洋戦争を引き起こしたのは、決して日本だけの責任ではなかったことは分かっています。しかし、真珠湾攻撃の成功に喜んだのは、立案者である山本五十六や日本国民だけではありません。むしろ、日本国民以上に小躍りするほど喜んだのは当時のアメリカ大統領ルーズベルトであり、ヨーロッパ戦線で苦境に立たされていたイギリスの首相チャーチルだったことも、今では常識となっています。真珠湾攻撃やイギリス海軍の戦艦撃沈の結果として、その後の4年間に日本はどんな道を歩むことになった忘れてはなりません。そしてだからこそ、どんな状況下にあっても戦争を選択しない国であることこそが、究極無比の防衛手段だとわたしは信じているのです。

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わたしの政策談義 

9.防衛について-1

 わたしは市議会議員として本議会で何度も大分市の「消防力強化」について論議してきましたし、消防局を所管する総務常任委員会でも常に消防力強化のための方法論を提案したり、紹介してきました。わたしの言う消防力の強化とは「消防局員の定員確保」「最新鋭、最強の装備品を持つこと」です。さらに「消防局員が日頃から徹底した訓練をしつつ、実出動がないままに定年を迎えること」と「はしご車や化学消防車などの最新鋭、最強の装備品を一度も出動させることなく廃車にできること」が「大分市民にとってのもっとも幸せなことだ」と付け加えることも忘れたことはありません。

 究極の防災は「災害を起こさないこと」です。しかしながら、火災は不断の努力によってある程度防げるとは言うものの、自然災害によって引き起こされる火災は防ぎようもありませんし、その自然災害は地震にせよ台風にせよ未然察知することはともかく、発生そのものを予防する方法はありません。同様に究極の防衛とは「攻撃することも攻撃されることもない状態、つまり平和を維持すること」です。そのことを忘れたかのように「台湾有事」「中露の脅威」「日米韓軍事同盟」などという言葉だけが飛び交っていること自体が空恐ろしいことではないでしょうか。ましてや元首相がわざわざ台湾に行って「日本の戦う覚悟」などと公言するに至っては、日本はついに戦争をする国家へと突き進むようになったのではないかと考える思うのはわたしひとりでしょうか。

 勿論、災害のない郷土が、それを願っているだけで得られるものではないのと同じように、平和もまた祈るだけでは守ることはできません。まして、歴史や文化、国民性、国内事情のどれ一つをとっても違う国々との関係において、少なくとも戦争をしないという状況を維持することは、ひと時の気の緩みも許されないほどの緊張感と知恵とが求められます。

防衛という場合、仮想敵国、つまり日本に攻めてきそうな国を想定することになります。現在、日本の周辺に日本を領土的な野心を持っている国は、わたしはないと考えていますが例外が1国だけあります。もちろんそれは中国でもロシアでも北朝鮮でもありません。それは米国です。そのことをわたしたちはこれまで知らないふりをしてきました。日本が無条件降伏によって占領下にあったのは1945年から1951年まで間でした。占領していたのは連合国ですが、実質的には米国でした。1951年に日本は曲がりなりにもサンフランシスコ講和条約によって独立を果たしましたが、その時、米国と交わした日米安保条約によって、日本は新たな形で米国の、少なくとも米軍の、植民地同様の国になり、70年以上過ぎた今日でも米軍に治外法権を許しているわけです。日本に領土的な野心持っている国ということになれば、未だにこの国を実質的に占領し続けている米国だけだと考えているのはわたしだけではないはずです。

 もう一つ意外なことを言うようですが、米国が未だに日本をその統治下(少なくとも管理下)においていることを、内心最も望んでいるのは他でもない中国だと、わたしは考えています。中国にとって日本は歴史的には朝貢して来ていた周辺国の一つであり、中華圏の外にあって、中華を四囲する東夷、北狄、西戎、南蛮の一部を成す所謂「化外の民」でした。同じ東夷であっても朝鮮半島は早くから中華に対する小中華と自らを卑下して分家を自任することで、中国の歴代政権から「化外の民」というよりは「遠い親戚」という扱いを受けることで、安全を保障されてきました。「白村江の戦」の時の唐、秀吉の入寇の際の明の対応を考えれば、それが単に地理的な遠近ではないことが分かります。

 もともと「夷=野蛮人」ですから「華=文明国」側から見れば何を考え何をするのか判りません。ごく少ない例外的な平和的な邂逅(古代の朝貢や遣唐使)を除いて、中国側にとっては時の政権を永く悩まし続けた倭寇、秀吉による朝鮮半島への侵略(文禄・慶長の入寇)、昭和初年の旧日本軍による侵攻などの経験から、日本は何をしかけてくるか中国側の論理では到底予測不可能なのです。その化け物のような夷の住む隣国が、さらに困ったことに一時は(明治維新から太平洋戦争まで)は中国を凌駕する勢いだったのです。

 その点、米国はその時々の自身の国内事情もあったとはいえ、欧州列強や日本が中国の混乱に乗じて侵略をしかけてきた時も、常に紳士的であり続けましたし、所謂大人の付き合いのできる国であり続けました。あの自国以外は全て国名に、ことさらに卑しい漢字を当てはめてきた中国が、米国だけは「美国」と呼んできたことにもそれが現れています。

 これは勿論、わたしの考えではありますが、少なくとも冷戦下、及びその後の経済成長期の中国にしてみれば「いつ自分たちには考えも及ばない理由で食いついてくるかもしれない野蛮な日本は、武装ほう起したまま、少なくとも紳士的な話し合いが出来る米国に縛られている」方がいいのです。日本国内で米軍基地の存在に反感が嵩じてくると常に、中国は尖閣をはじめとする日本近海で示威行為を強めて、米軍の日本国内でのプレゼンス(つまり日本の拡大志向を封じ込めるための軛)の確保のために米軍への援護射撃ともとれる行為をしてきました。いつ食いついてくるかもしれない危険な山犬は、米国の鎖(軛)につながれていてくれた方が安心と考えているというのは穿ち過ぎた見方でしょうか。

 「野蛮なのはどっちか」などという論議は無意味です。中国には中国の4千年の歴史を通して培ってきた論理しかありません。そしてそれは今日の日本の常識とは全く違うものです。中国の論理で中国国内の矛盾や国民の不満を外に逸らせる対象として日本は格好な国ですし、どんなにいじめようが貶めようが、米国が日本を自国の占領地同様に抑えている以上、日本が中国に歯向かうことはないと、中華人民共和国の歴代の指導者は考えているとわたしは考えています。なぜそんなことを言い出したかというと、防衛、国防の本質がそこにあると考えるからです。

 しかし近年、中国が驚異的な経済成長を遂げたことによって、状況は変わりました。中国の米国に対する現実主義としての好意的な外交スタンスは大きく変わったのです。特に戦争を経験したことのない習近平政権になって特に、その変わりようは激しくなってきました。

 激しい血みどろの内戦を戦って中華人民共和国を建国した毛沢東は、彼の存命中、ベトナム戦争、中越戦争、対カンボジア戦争をやりながら、1969年には中ソ国境となっていたウスリー川の珍宝島を発端として発生した中ソ衝突によって中ソ双方に戦死者を出す戦闘をしてしまいました。その頃の自国の国力とソ連のそれを比較して、毛沢東は国境線の向こう側に配備されたソ連軍の戦車が今にも押し寄せてくるのではないかという恐怖にさいなまれ続けていたそうです。

 それに比べて、ソ連の崩壊後、さらにはプーチンが繰り返し外交的、軍事的な判断ミスをしてくれたお陰で、今や立場が逆転しました。中露の国力の圧倒的な差を背景としているのが戦争を知らない世代である習近平なのです。その習近平にとって自国を脅かす強国は今や米国しかなくなりました。戦争の怖さをよく知っている毛沢東の時代は米ソ双方への両面作戦は考えることさえ不可能でした。冷戦期から米中国交正常化までの間、米国もまた自国の経済進出の目論見から中国の期待に応えていました。しかし、今や世界第2位の経済大国として米国に肩を並べる中国の指導者は、自国の仮想敵国を米国一国に絞っているようです。

 そうなった今日、日本はどうなるのか。中国にとって在日米軍は謂わば自国ののど元に突き付けられた匕首の存在であり、仮想敵国の言いなりなるしかない日本は、歴史的な厄介者の倭国というだけでなく米国の脅威を助長する一部ということになります。現にベトナム戦争時代、当時の北ベトナムに爆弾の雨を降らしたB52爆撃機は沖縄から飛び立っているのです。

 ロシアによるウクライナ侵攻以来、台湾有事が現実味を帯びてきたと騒がれています。元首相が台湾で「戦う意志」について言及したというのも、その話の一環なのです。政権与党はこの機に乗じて防衛強化の必要性と言いながら、「日米韓軍事協力体制の強化」「自衛隊の戦力増強」「殺傷能力ある武器の輸出解禁」などなど、日本がもう一度戦争のできる国なることを目指しているとしかわたしには思えません。しかも、その実態はアメリカ追随型の軍事力増強であり、中国の側から見れば、のど元の匕首の強大化なのです。

 では米国はいざという時、自国民を危険にさらしても日本を防衛してくれるのかというと、日米安保条約とその付則である日米地位協定を読み解く限り、米国はそんな約束はしていません。米国にそんな義務も義理もないというのが真実です。米国にとって今日的な日本の価値は単に基地を置くことができる国であるということです。貿易関係にしても日本は米国の相手国としてなら、とっくの昔に中国に抜かれているのですから。(続く)

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議会報告 令和5年7月定例会

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わたしの政策談義 8.軍備について

 台湾海峡の波高しということで、自民党政権は鉦や太鼓で「防衛力増強」「武器輸出3原則のなし崩し的緩和」を喧伝し、果ては核兵器保有論まで飛び出す始末です。そのことが日本の国の将来に向けて如何に危険な兆候であるか、もっと云うなら未来の国民の命を犠牲にすることをいとわない暴論であるかを、わたしたちは感じ取らなくてはなりません。つい100年前の20世紀の初頭、我々日本人は滅びへの死の行進に一歩を踏み出し、留まることも止めることもできないまま、300万人を超す犠牲者をだし、全国の主だった都市を焦土と化してしまいました。今また、その道へ踏み出そうとしているとしたら、現代を生きる我々の未来の日本人に対する背徳だと、わたしは考えています。

 繰り返しになりますが、最近の政治動向を見ていると田中角栄元首相が言った「戦争を体験している我々が政治の中枢にいる間はこの国は大丈夫だ」という言葉に重みをかんじます。空恐ろしいことに現在、国内の現役政治家にはあの太平洋戦争を経験した世代は見当たりません。外国に目をやっても、1953年生まれの中国の習近平もまた毛沢東たちの血みどろの内戦を知りません。高齢が政治的な課題となっている米国のジョー・バイデンでさえ1942年生まれです。さらに1952年生まれのウラジミール・プーチンは戦場での経験が無いだけでなく、軍隊生活すらも経験したことがありません。そのプーチンが侵略戦争を決断したことは、70数年前に我が国が犯した大きな過ちに通じるところがあるのも歴史の持つ皮肉さであるのかも知れません。ロシアとウクライナの歴的なつながり、言葉の共通性、隣国同士であることなどを考えると、正しく「戦争を体験している政治家がリーダーであるうちは世界は大丈夫」ということのアンチ・テーゼつまり「世界中のリーダーたちが戦争を体験していない政治家ばかりとなった今日、世界は危うい」のです。

 今の日本はかりそめではあっても確かに平和を享受しています。しかしこのまま座してその平和を享受するだけでは、少なくとも未来のわたしたちの平和までは保障されません。大岡昇平は彼の小説の一節で「軍に抗うことは確実に殺されるのに(大岡昇平戦争小説集靴の話・出征)」と書いています。そして「じっとしていれば、必ずしも召集されるとは限らない。招集されても前線に送られるとは限らない。送られても死ぬとは限らない(出征)」と考え「わたしは祖国をこんな絶望的な戦にひきずりこんだ軍部を憎んでいたが、わたしがこれまで彼らを阻止すべく何事も賭さなかった(俘虜記:捉まるまで)」のです。

 確実な死を覚悟し、それないっそ自らの命を破壊しようとした土壇場で、初めて「確実な死に向かって歩み寄る必然性は当時の生活のどこにもなかった。しかし今殺される寸前のわたしにはそれがある(出征)」ことに気づき、それでもなお、わたしがこれまで彼らを阻止すべく何事も賭さなかったことから「今更彼らによって与えられた運命に抗議する権利はない(捉まるまで)」と書くしかありませんでした。

 わたしはこれまでも「全ての軍隊はいつか必ず自国民に銃口を向け引き金を引く」と言ってきましたが、大岡昇平の生きていた時代、この日本の国の軍隊もまた、日本国民であっても自分たちに歯向かえば確実に死をもって報いることを辞さなかったのです。少なくとも大多数の国民がそう思っていたし、現実にもそうであったことを歴史が証明しています。

 政府の言う防衛力増強とは、兵器、兵力の増強であり、結局のところ自衛隊の組織拡大なのです。一度構成された組織はあらゆる生物がそうであるように、誕生と同時に自己の存続と成長(拡大)を希求します。そして、その存続と成長を阻もうとする存在を敵とみなし、自己(組織)を守るために、その存在を否定しようとします。軍隊も組織である以上そうです。本来の存在意義であるはずの「国防」よりもまず、自分たちの組織の保全(つまり存続と成長)を優先したくなるのは自然な自己防衛本というべきかもしれません。自らの存続と成長を阻もうとする存在を認めないというのはどんな組織もそうですが、軍隊の場合、暴力装置を有しているだけに当然ながら他の組織よりも危険です。そのことを日本の政治家も自覚していたのでしょう、少なくとも1970年代くらいまでは防衛大学校では「自分たち自衛隊員は軍人ではない、自衛隊員である」と教育し、そう自覚させていました。それがどうでしょう。現在、いつの間にか自衛隊は他国が認めるだけでなく、自分たち自身が軍隊であると口外して憚らなくなっています。それだけでもこの国がかつての軍隊に席巻され蹂躙されていた国へと確実に一歩を踏み出してしまったと思わざるを得ないのです。

 現在「殺傷能力のある防衛装備品(武器)の輸出を解禁」することを与党内で検討中です。残念ながらそこに国民世論などの入り込む余地はありません。わたしは長く外国で暮らしていましたが、その当時の日本の工業生産の技術の高さは世界中の称賛の的でした。その頃よく「日本の技術をもってすれば、性能の良い兵器を作れるはずなのに、それを造って輸出しようとしない。素晴らしいことだ」という声を聞いていました。

 1978年にソ連(当時)がアフガニスタンに侵攻した際、タリバンに対して米国が大量の武器を供与したことがありました。ソ連が引き揚げた後、タリバンと米国が敵対し交戦するようになると、米国がタリバンに供与した米国製のスティンガー(携帯式地対空ミサイル)が米国の攻撃用ヘリコプターを撃墜しました。

 それはベトナム戦争終結後の1978年から12年続いた中越戦争の時にも同様で、ベトナムが使ったのは、ベトナム戦争当時に中国から供与された中国製の武器でした。1982年に勃発した英国とアルゼンチンのフォークランド戦争の時には、同じ欧州諸共同体(EC)の一員同士で、北大西洋条約機構(NATO)の同盟国であったフランス製のエグゾセ(対艦ミサイル)一発で英国のフリゲート艦が撃沈されました。それぞれの国で兵器製造に就いていたその国の国民は、自国民や友好国を守るために危険な仕事に従事していたはずですが、その人々が製造した兵器が供与や輸出によって一旦他国にわたると、自分たちの国民や同盟国の国民を殺すことに使われてしまうということの皮肉さと深い悲しみを覚悟しなくてはならないのです。

 日本国内で製造されている殺傷目的の兵器や弾薬は今のところ全て自衛隊のためですが、それを輸出することになれば、いつの日か日本人が造った兵器・弾薬で日本人が殺されるという事態が起きることになります。日本人にそんな悲しい仕事をさせるわけにはいかないと思いませんか。

 「核兵器保有論」についてはもう論外というしかありません。核兵器に戦争抑止力があるという考え方は破綻しているだけでなく、もともとまやかしでしかありません。むしろロシアのプーチン、北朝鮮の金正恩に核兵器を持たせていることで核の脅威はいや増すばかりです。しかも、実は他の保有国である安全保障理事国やインド・パキスタンなどの国々についても核保有の目的は同じです。核兵器を保有するということが自国の安全ためというより、他国への恫喝のためなのです。世界で唯一の被核攻撃体験国である日本としては、核兵器を持とうというのではなく、核兵器を持つ国々に対して「核兵器放棄」を訴え、少なくとも「核兵器不使用の国際ルール」を確立することにリーダーシップをとるべきであり、世界中の核兵器禁止条約参加国(2023年1月9日現在署名国92か国・批准国69か国)がそのことを期待しています。そのためにも核兵器禁止条約に一日も早く参加して、米国にきちんと物申す「厄介な」同盟国になるべきですし、先ずは本年(2023年)11月にニューヨークで開催予定の参加国会議に、オブザーバーとしてでもいいから参加することを表明するべきと、わたしは訴え続けたいと思います。

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わたしの政策談義 7.日本の安全保障についてー2

わたしの政策談義

7.日本の安全保障についてー2

 日米地位協定は全部で28条あり、しかもそれぞれの項目が非常に長いものです。条例本体に付随する付則や付帯条項の常とはいえ、全部で10条しかない日米安全保障条約本体に比べて怖いほど細かく規定されています。日米地位協定は日米安全法相条約の中でも第6条に規定されている「施設・区域の使用に関連する具体的事項及び我が国における駐留米軍の法的地位に関しては日米間の別個の協定による」という条文に基づいて定められたもので「施設・区域の使用および駐留米軍の地位を規律する協定」となっています。日本の国の安全保障について論議し、あるいは憲法改正について論議するためには、その前提としてまず、わたしたちがその存在を知ってはいても、中身までは知らないか知らぬふりをしてきたその日米地位協定の中身について光を当て、日本と日本国民にとってどのような意味を持っているのか検証することが必要であることは論を待ちません。

 わたしが憤りと共に問題視しているのは日本政府が日米地位協定を1970年に自動継続としたことです。同協定の第28条には「この協定及びその合意された改正は、相互協力及び安全保障条約が有効である間、有効とする。ただし、それ以前に両政府間の合意によって終了させたときは、この限りでない」とあります。そこで改めて日米安保条約を見ると第10条に「・・・、この条約が十年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行なわれた後一年で終了する」となっています。

 1970年はその10年の効力期間の最後の年だったのです。それをつまり日本側からは安保条約を終了させる意思はないと表明したことになります。1970年は安保闘争の年となりました。70年安保闘争の議論の的はいくつもありましたが、中でも最大であり、今日にまで重大かつ負の影響を残しているのが「自動継続」の決定を日本政府がしたことにあったとわたしは今でも考えています。

 毀誉褒貶の激しいのは昭和の政治家たちの常ですが、中でも特に際立っているのが田中角栄氏です。しかし、その彼が「あの戦争を知っている人間たちが政治家である限り、日本は戦争をしない」と言っていることをご存じでしょうか。その彼の一言でわたしの田中角栄像は定まりました。それは「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが戦争を知らない世代が政治の中枢になった時はとても危ない」ということであり、つまりは「戦争を知らない政治家ばかりになったら、日本は戦争をする」と言っていることになります。そして、正しく今、日本だけでなく世界中の主だった国々の政治の中枢にいるリーダーたちは戦争を知らない政治家ばかりなのです。

 自民党政権は台湾有事に備えてなどといって軍備増強を図ろうとしています。大震災からの復興を助けるため復興債だったのはずの所得税増税分でさえも、その軍事力強化のための財源に回そうとしています。しかも、復興債だけで足らないと見るや捕捉率の高いサラリーマンの懐にさらに手を突っ込もうという増税論議も喧しくなってきました。日本の軍備増強は結局のところ、戦争を知らない政治家たちが、米国のビッグファミリーのロビー活動に踊らされている時の政権の言いなりになって、兵器を買いあさろうとしているにすぎません。軍拡は仮想敵国の更なる軍拡を誘い、そのいたちごっこは終わりがないどころか、戦争という形で破綻するまで続くことになるでしょう。いつか来た道をまた日本に歩ませようとしていると、わたしには思えてなりません。安全保障という言葉から、わたしたちは直ぐに日米安全保障条約を思い浮かべますし、また思い浮かべなくてはならないと、わたしは常に考えています。そして、その日米安保条約の本質が何であるかを、日本国民は正確に見つめ直さなくてはならないのです。

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わたしの政策談義                      6.日本の安全保障について

 外交」とか「防衛」なんていうことは本来、地方議員が云々する話ではないかも知れません。そのことはよく判っているつもりです。わたしは市議会議員に初当選以来これまでの26年間、質問に立たなかった議会は一度もありませんし、常に持ち時間を一杯に使って論議してきました。それでも国の専権事項である外交や防衛に関する問題を市政の論議の場で取り上げたことはありませんでした。安全保障という言葉そのものはわたしの質問でも何度か取り上げてきましたが、それは「食料安全保障」や「情報安全保障」などに限ってきました。しかし、これまでの自分の国内外での経験について振り返る時、わたしなりに考えるこの国の在り方、また、外のから見てきた自分の国の姿について語ることも、少なくとも人生70歳の坂を越えた爺さんに残された社会奉仕の一つではないかと思うようになりしました。

 日本の安全保障という時、真っ先に挙げなくてはならないのが日米安全保障条約であり、その付則である「日米地位協定」だとわたしは思います。まずはそのことから聞いていただきましょう。「日本は自主外交を展開しなくてはならない」と言われて久しいのですが、その自主外交についてわたしたちが考える場合に真っ先に考えなくてはならないのが、そこに立ちはだかる日米安保条約と地位協定の存在であることは論を待ちません。わたしたちが知っている日米安保条約は1960年に岸信介政権下で結ばれた「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」のことであり、それが今日まで続いている安保条約です。

 一方、1951年にサンフランシスコ条約によって、日本の独立が認められた時に「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(旧安保条約)が締結されていました。この条約はたった5条からなる単純なものですが、日本独立後も占領軍が駐留軍と名前を変えるだけで「望む数の兵力を」「望む場所に」「望む期間」駐留させる権利をアメリカ合衆国(当時の国務長官ジョン・フォスター・ダレスの発言)が確保するためだけのものでした。それは言ってみれば、それまで繰り返されてきた米国の、国としての気質そのものが反映されたものでした。要は単純に(それだけに露骨に)米軍が引き続き日本国内に駐留し続けることだけを明記したもので、条約の期限は無し、米国が日本国を防衛する義務は無し、日本で内乱が発生した時には米軍が鎮圧(内政干渉)するというものでした。

米国人の気質というのは別の言い方をすると、米国人の欺瞞的、二重人格的気質です。つまり米国人は国内的に徹底した民主主義を装いながら、国際的にはまるで古代ローマ帝国の再来として、帝国主義的なふるまいを何の躊躇もなくやってのける気質です。第二次世界大戦以降だけでもベトナム戦争、イラク戦争、リビアへの軍事介入などなど、その具体例は枚挙に暇はありません。1970年の安保条約再批准の際、それに反対する側がシュプレヒコールで「米帝」とか「アメリカ帝国主義」と連呼していましたが、当時の東西冷戦状態の中とはいえ、ベトナムでの米国のふるまいを考えれば、米国が「世界帝国」を自任していながら、自国内では民主主義の体現者をふるまっているという二重人格性を思い起こさざるを得ないのです。

 1960年に岸信介とアイゼンハワーによって交わされた現在の安保条約は、その批准のための国会が大荒れとなり、批准に反対する学生が国会に突入しようとして女子大生1人がなくなるという悲劇も生まれたため、安保と言えば多くの日本人がこちらを思い浮かべることでしょう。旧安保条約は前文と条文5つでだけでしたが、新安保条約は前文と条文10条になりました。しかし、第6条の条文に「在日米軍について定める。細目は日米地位協定に規定される」とある地位協定が、今日まで続く我が国の社会的矛盾と欺瞞の、まぎれもない根本原因なのです。まさに日米安保条約とは米国に治外法権どころか、日本全土を租借地同然に差し出しているに等しい不平等条約であり、日本の外交政策上の最大の禍根であり、明治初年の先人たちがやったように、あらゆる知恵を注いで不平等条約を解消し、その上で改めて平等・対等な同盟関係を構築するべきではないでしょうか。

 日米地位協定とはつまるところ、日本の敗戦直後から日本に占領軍として駐留してきた米軍の地位を、そのまま日本が認めるという屈辱的な協定です。この協定によって守られるのは米軍人、軍属、その家族であり、米軍の日本国内での行動の自由であって、日本人の安全や知る権利を保障するものではありません。重ねて言いますが、日本国内でありながら、米軍基地内は租借地であり治外法権の地です。それどころか米軍関係者やその関係する事案(米軍人による犯罪や交通事故、軍用ヘリコプター墜落などなど)は、租借地外においても日本国の法権力が及ばないことになっているのです。わたしたち日本人はそのことに気が付かないふりをし続けることで、確かに冷戦時代のこの国の安全を保障し、敗戦の焼野原から高度経済成長を実現しました。特に1960年代から1980年代まで大いに繁栄を極めてきました。しかし、東西冷戦がソ連の崩壊によって一歩的に終結したとたん特に小泉政権以降今日まで、日本の富とそれを支えてきた技術力は、米国と米国のビッグファミリーや投資ファンドによってむしり取られ続けてきました。そのことは、まだ外国にいた頃からわたしは機会あるごとに言ってきたことです。なぜなら、わたしの働いていたブラジルやその他の南米諸国、あるいはエジプトでさえ、経済援助を享受しているはずのそれらの国で、米国が嫌われていることを体感していたからです。しかし、バブル期の狂騒の期間中はもちろん、バブル崩壊後の混乱の中でも、わたしのその警告は螻蛄の鳴き声ほどにも誰にも届きませんでした。

凶弾に倒れた前首相の執念がそうさせているのか、岸田首相の熱意なのか、最近になって改憲論議がさらに実現性を帯びてきました。しかし、わたしは長年、改憲の前にまず日米安保条約と地位協定の改定ないしは破棄が必要であると考えてきました。特に日米地位協定は明文化されて公表されているうわべだけでなく、所謂「密約」というものがあることが問題なのです。何が問題化と言えば、その「密約」によって日本での米軍の存在を実質日本国憲法よりも上位にあると規定していることです。憲法よりも上位にあるのですから、米軍にとって日本の国内法などは存在しないも同然ということになります。

 例えば「航空法」という国内法があります。これによって航空機の飛行経路、飛行高度などは非常に細かく規定されているのですが、米軍の飛行機はこの法律からも除外されてます。従って米軍がそうしたいと思えば、日本中の好きなところを好きな高度で飛ぶことが出来ますし、それに対して司法に訴えようにも地位協定がある以上、裁判所は取り合おうとさえしないのです。ずいぶん昔の話ですが、旧安保条約が日本国憲法に照らして違憲か合憲かが争われた砂川事件というのがありました。東京地裁は違憲との判決だったのですが、これに対して高等裁判所を飛び越して最高裁判所が「米軍駐留を定めた安保条約は高度の政治性を有しているから司法裁判所の審査にはなじまない」という訳の分からない理由を付して、安保条約が合憲か違憲かについての判断はしないまま、原判決を破棄、東京地裁に差し戻しました。そのくせ「外国軍隊は憲法第9条にいう戦力にあたらないから米軍の駐留は憲法に違反しない」と米軍の駐留については合憲と判断しているのです。この最高裁の判断に依拠する形で、以来、日本国内の米軍は日本国憲法より上位にあるとされてしまいました。この最高裁判断が1960年の日米安保条約の調印のひと月前だったことも、判決が何事かを象徴していると言わざるを得ません。

 オスプレイが在日米軍に配備された時、大分市を含めて市街地の上空を低空飛行するオスプレイの騒音が問題になったことがありましたが、米軍機が訓練や移動のために飛行をする場合、日本国中どこでも飛ぶことが可能であることは既に述べました。ほかにも、わたしたちの記憶に新しいところでは2004年に普天間基地隣接地の沖縄国際大学構内に米軍のヘリが墜落する事故がありました。普天間基地は米国が自国以外に設置している唯一の海兵隊基地ですが、事故後どのような経緯をたどったかということほど、沖縄ひいては日本の置かれている状況を物語っていることはありません。

 さらに言えば、普天間基地の移転問題で、当時の鳩山由紀夫首相が「できれば国外、最低でも県外」と言った時の日本の官僚による悪意のあるリークとサボタージュ、それを増幅する形で「鳩山おろし」を煽ったマスメディアも、主権を有する国のはずの日本の時の首相が米軍の意向に逆らったらどういう目にあわされるかを見せつけた共犯者だったと、わたしは今でもそう思っています。それがまさに日米の地位協定に描かれていない「密約」の存在を裏付ける動かしがたい証拠だったのです。しかしその時も、リベラル系の政党、リベラル系のマスメディアでさえ知らぬ顔をして鳩山おろしの大合唱になったのです。

米国が国外に設けている海兵隊の基地が普天間以外にないと言いましたが、米国内には2カ所あります。そしてそのどちらの基地からも、飛び立つ海兵隊のヘリコプターやオスプレイは米国人の住む市街地上空を飛ぶことはありません。海兵隊であっても米国内の航空法は遵守する必要があります。それが日本に来ると日本にも確かに存在している日本の航空法などはお構いなしに好き勝手に大学どころか小中学校もある市街地上空を飛び回っているんです。

 だからこそ日本が自国の安全保障を本気で考えるのであれば、憲法改正よりも先に日米安全保障条約と地位協定についてきちんと評価と検討をしなくてはならないはずです。少なくとも存在そのものは既に公然となっている「密約」の存在を認め、米国が自国内では公開している「密約」について、その内容をつぶさに公開しなくてはならないでしょう。

 鳩山首相の話をしましたが、日米安保条約成立後、わたしの知る限り3人の首相が日本独自の安全保障構想を抱いていました。1人はロッキード事件という米国の仕掛けたハニートラップで退陣を余儀なくされた田中角栄であり、その次は社会党・新党さきがけとの連立政権について、訪米中に米国から注文をつけられたことで退陣した細川護熙、そして前述しました鳩山由紀夫です。鳩山首相の場合、繰り返しますが一国の首相が沖縄から基地負担を軽減するために「最低でも県外」と発言したことによって、霞が関官僚たちの裏切りに会い退陣せざるを得なかったということを、憲法論議の前にわたしたちはもう一度思い出して、それが何を意味するのかを考えなくてはならないのではないでしょうか。

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わたしの政策談義                     5.「矜持」と「正論」の国、韓国と北朝鮮

 朝鮮半島には同じ民族でありながら、南北ふたつの国に分かれて未だに戦争状態を続けている人々がいます。わたしはその南北の境界線を訪れたことがあります。そこには幅4キロの非武装地帯が北緯38線に沿って延長約248km設定されていることは周知されており、その非武装地帯と呼ばれているはずの約1000平方キロの帯状の土地には、200万個の地雷が設置されているのです。そのおびただしい地雷を思い浮かべるとき朝鮮半島が置かれている現実の恐ろしさと悲しみをいやが上にも感じてしまいます。

 オドゥサン統一展望台という場所からは漢江(ハンガン)とイムジン河の合流点を挟んだ対岸に、朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)の「宣伝村」と呼ばれる区域を望むことができます。今ではその場所に立派な展望台が建っており「統一念願室」という展示室もあるそうですが、わたしが行った時は小さな公園のような場所で、遠くから宣伝村を備え付けの双眼鏡で眺めるだけでした。大韓民国(以下韓国)側がことさらに宣伝村と呼んでいるのは、双眼鏡の視野に展開されているトラクターで耕している農民姿の北朝鮮の人々が実は皆工作員で、北朝鮮の国内情勢が平穏で豊かであるということを見せつけるためだけに働いているというのです。その証拠にトラクターはいつも動いているのに、何かの作物が育つことや、まして収穫することなどは見ることがないそうです。そこにもまた南北の人々の悲しみと統一への叶わぬ願いが感じ取れます。

 北朝鮮は韓国から宣伝村と揶揄されても、とうの昔に嘘のばれてしまったプロパガンダ舞台劇「明るい農村」を演じ続けるという子どもじみた矜持(プライド)を捨てきれいないのは、自分たちの建国した国は理想の国であり、地上の天国であるからこそ、その幸福を南の同胞とも分かち合いたいと、少なくともそう主張したいからでしょう。一方で韓国側は、国連軍とはいえ米軍の駐留がなくては、世界に冠たる経済大国として自他ともに認めるほどの繁栄も、かりそめのものになってしまうことを承知のうえで、自分たちが統一を希求しているのは民主的な民族自立のためなのだという正論を声高に言い続けざるを得ません。そのそれぞれの想いと立場を、隣国の住む我々としては惻隠の情をもって理解しなくてはならないとわたしは常に考えています。

 朝鮮半島もまたロシアとは違う意味で、つらい、悲しい歴史の連続でした。中国史に朝鮮半島の存在についての記載が初めて出るようになってから今日に至るまで、朝鮮半島に住み暮らす人々が、異民族の支配、若しくは屈辱的な圧迫下に置かれていた期間に比べて、たとえそれが独裁であろうと暴政であろうと、戦国時代のように互いに分立していがみあっていようと、少なくとも自分たちの民族だけで自決できていたという期間は圧倒的に短かったのです。

 勿論、新羅は約400年続いていますし、李氏朝鮮は約500年続いていました。しかしその時代ですら内実は、絶えず侵略者からの攻撃にさらされ、暴力と収奪の被害者としての繰り返しだったのです。日本もまた、豊臣秀吉の2度の入寇と20世紀初頭から敗戦までの併合という名の植民地化などなど、何度も加害者の側に立ちました。遊牧民族だった契丹国、北方の女真族や満州族、さらには元による破壊的な征服などなど、その歴史は常に異民族から侵害され続けていたことを今更ながら考えてしまいます。

 ロシアは広い広いユーラシア大陸の中の真只中に広大な領土を有していました。そのために東西両方からの度重なる圧力を受けざるを得なかったのですが、朝鮮半島はそのユーラシア大陸から見れば盲腸の先にぶら下がっている虫垂ほどの小さな小さな地域です。しかし、それでもなお不幸なことにユーラシアと陸続きにつながっていることが、朝鮮民族にとって地政学的な不幸の根源だったのかも知れません。

 ところで朝鮮という呼称は古い時代の「潮汕」という名称に由来する古朝鮮語の音写だそうです。その音写である朝鮮という名前は中国との交流(若しくは圧迫)が始まってから、中国側によってつけられたものです。鮮という字には2つの殆ど真逆の意味があり、その一つは「鮮やか」という訓があるように「新しい」とか「際立って美しい」という意味、つまり朝の来る方角(東)の美しい国という字を当てていることになります。しかし、もう一つの意味は論語の「巧言令色鮮仁」にあるように少ないということです。つまり中国側から見て「朝貢鮮小(朝貢が少ないの意)」と揶揄するための当て字という説もあるのだそうです。韓国の「韓」については春秋戦国時代以前から漢民族の一般に「韓」族がいて、その一部が本国の混乱のために東方に逃れてきたとも伝えられていますので、むしろ由緒正しい呼称を朝鮮の側で名乗ったのではないかと想像できます。

 日韓併合が大日本帝国の無条件降伏によって解消された後、朝鮮半島はめでたく独立ということになるはずでした。ところが実際は第二次世界大戦終了後の主導権争いを始めた米ソの思惑によって代理戦争の実験場と化してしまいました。1948年には半島の南北でそれぞれが傀儡政権である「大韓民国(韓国)」と「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」が樹立され、朝鮮戦争という同族相食む悲劇を経験して今日に至っています。

 半島の人々が日本に対する反感を抱き続けることは仕方のないことでしょう。明治期に日本が戦った日清・日露の両戦争は朝鮮半島をめぐる日本の安全保障上の危機感がその最も大きな要因でした。しかし、それはあくまで日本側の都合です。謂わば民族的にも文化的にも最も近しいはずの隣人で、しかもその文化は青銅器や鉄器、文字や陶器・磁器などなど全て半島側から日本側に伝えられており、謂わば日本は教えられた側です。理由が何であれ親戚でもあり、師匠筋でもある隣家に土足で侵入し、家人に無礼を働いたことは間違いのないことです。併合期間の半島の識字率の向上や、産業の発展などなどいくら併合時代の日本の治世の成果と功績を掻き口説いたところで、やられた側からすれば許せることではないのも当然です。戦後の日韓関係は氷河期と雪解け時期を繰り返してきました。韓国国内の政治的な対立、与野党の攻防は凄まじいもので、どちらかが親日路線を取れば、必ずその反対勢力は日本を敵視することになります。その繰り返しには日本人ならずとも誰でもうんざりするというのも正直なところです。

 明治時代に併合を決断した日本の責任者や、それから1945年までの併合時代の圧政の責任者は、その当事者たちは勿論、その事実を実体験的に知っている人々さえも今となってはほとんどいません。しかしながら、事実は事実として国内的にも対外的にもきちんと評価してこなかった日本の戦後政治にも大きな責任があることは否めません。

 韓国は1992年以降、日本海を「東海(トンヘ)」と改称または併記するよう、国際水路機関や国際連合地名標準化会議の「大洋と海の境界の改訂に関する会議」に働きかけるようになりました。その主張は国際的な理解を得られるものではありませんが、それよりもわたしは1992年という時期に注目しています。その年はそれまで3代続いた軍事政権最後の大統領慮泰具の任期が終わり、金永三が金大中などの対立候補を破って民衆政権初の大統領となった年です。周知のされているように金大中氏は親日派でしたが、金永三氏はその反対勢力であり、しかも金大中氏と大統領の椅子を争う戦いのためにそれまでの軍事政権と手を結んでいました。

 民主化後初の文民大統領であった金泳三氏ですが、戦後何かにつけて世論受けが良かった反日キャンペーンを選挙戦に取り込みました。日本側の歴史認識を問題にして、常に攻撃的な反日姿勢を示していたのです。それは韓国民衆の心情を捉え、共感を得、選挙運動としてのエネルギーにも転嫁することができました。「東海」もまたその一環として持ち出されたものではないかとわたしは考えています。

 面白いのはこの問題に対する北朝鮮の立場です。彼らも日本海という呼称には嫌悪感を露わにしていますが、北朝鮮の主張は「朝鮮東海」という呼称です。「東海」というのは中国では東シナ海を指す名称であるため、中国の東海と区別するために「朝鮮東海」としているのでしょう。北朝鮮と言えば「強弁」の国と思われがちですが、彼らは彼らなりに中国に忖度しながら彼らの正論を主張しているのです。

 そう言えば、韓国も北朝鮮も日本からの解放後、日本語由来の言葉をそれが感じであっても使わないと宣言しました。韓国はその宣言通りに慎重に言葉選びをして来ましたが、北朝鮮の方は例えば国名の漢字表記である「朝鮮民主主義人民共和国」の内、「民主」「主義」「人民」「共和国」などは日本で生み出された和製漢語です。北朝鮮の主張に従うなら、本来なら排除されるべき熟語のはずです。しかし、これらの熟語は全て既に中国で普及しており、北朝鮮としては中国をお手本にしてのことだと言うのでしょう。まことにおおらかというしかありません。

尹錫悦大統領の訪日で、日韓の雪解けと期待しているのは、わたしひとりではないはずです。しかし、どこの国でも大なり小なりそうですが、とりわけ韓国の外交というのはこれまでも繰り返されてきたように内政の都合によって大きく左右されます。韓国側には与野党ねじれ状態という内憂があり、日本側にも統一地方選挙直前の政治キャンペーンという事情があります。韓国が既に日本を凌駕するほどの経済力を有していることは国際的に周知のことです。日本経済研究センターでも個人の豊かさを示す1人当たりGDPが2023年には韓国を下回るとの試算を公表しています。日本の経済が停滞している間にデジタル化が遅れ、労働生産性が伸び悩んでいた上に、ウクライナ戦争の世界的なエネルギーと食糧の供給危機の高波をもろに受けた円安・ドル高の影響とはいえ、日韓の経済力が拮抗していることは間違いのないことでしょう。

 北朝鮮が如何に派手な脅迫的なパフォーマンスを繰り返しても、所詮は遠吠え以上のものにはなりえません。自爆的に道連れにしようとでも考えない限り、北の暴発はあり得ませんし、脅しを繰り返しながら自爆的な行動だけはとらないというサインが、あの金正恩がどこに行くにも連れている可愛いらしい女の子ではないかとわたしは思っています。

 東アジアを取り巻く情勢に誰かが火をつけるとしたら、そのカギはむしろ米国が握っていると言えます。日本が最も近しい同盟国というのであれば、日本としてはその近しさを利用して米国の思惑を常時注視し続け、きちんとした情報分析に基づきながら、米国のビッグファミリーなどの死の商人たちの暗躍に歯止めをかけて行かなくてはならないのではないでしょうか。

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わたしの政策談義

4.「人民」と「秩序」の国中国

 もうずいぶん前のことですが、大分市農業委員会の中国新疆ウイグル農業視察団に同行させてもらいました。わたしは中国の想像を絶するような人口密度に恐れをなして、それまで中国大陸へ行くことはありませんでした。大分市と武漢が友好都市ということで、何度か節目の年に誘われましたが、それでも行く気にはなれませんでした。しかし、一方で漢詩の世界には憧れのようなものを抱いていましたし、とりわけ王維の七言絶句「送元二使安西」の一節「西出陽關無故人(西のかた陽関をいずれば故人なからん)」の「陽関」が長年の行きたい地の一つだったのです。

 その旅での目的はウルムチ地方のカーレーズと呼ばれる農業用水システムとそれを利用した農業生産地を視察することではありましたが、目的地のウルムチ市とトゥルファン市に行く前に、まず敦煌市に行きその郊外の念願の陽関を訪ねましたし、ウルムチの博物館では楼蘭の美女の木乃伊も見ました。しかし、その旅で最も印象に残ったのはウルムチの高級ホテルで開かれた歓迎レセプションでした。それまでもトゥルファンの農家では少女たちがウイグル族の踊りを見せてくれ、同行した大分市の農業委員の方たちはその可愛さにチップをはずんでいました。農業視察団とはいえ、まさかホテルの広い会場でウルムチ市の公式の歓迎レセプションを開いてくれるとは思いもしていませんでした。

 ここでもウイグル族の踊りや音楽などのプログラムの後、ウルムチ市の幹部らしい方のご挨拶も頂きました。その内容は通訳の日本語が分かりにくかったこともあって、ほとんど覚えていませんが、それでも強く印象に残ったのには訳があります。その一つはわたし達のような市レベルの農業委員会の視察団に対しても公式の歓迎レセプションを開いてくれたという中国のホスピタリティーの高さです。まるで遣唐使時代にタイムスリップしたような不思議な感覚を抱いました。しかしそれ以上に心に深く残ったのは、歓迎のプログラムは新疆ウイグルの地元民であるウイグル族らしい彫の深い美男美女で構成されていましたが、挨拶になった市の幹部はわたしたちがよく見る中国人、つまり漢族の人だったということです。

 新疆ウイグルは自治区です。自治区の人口はわたしが訪問した当時でも2000万人(現在は約2500万人)を超えていたのですが、その時の人口比もウイグル族45%、漢民族 41%であり、ウルムチ市は人口300万を超す自治区首都です。自治区である以上、わたしは自治区の高級幹部もウイグル族から選ばれているものと思っていました。その後、この地で起こっていることを報道で知るたびに、あの時の歓迎レセプションを思い出してしまいます。

 中国は人民の国です。文明が発祥するためにはいろいろな要因が必要となりますが、人口も必須の条件です。中国に文明が発祥した時から人口は相当な数だったことになりますし、世界中に文明と呼ばれる場所がありますが、中国を除く他の文明と中国文明が大きく違うのは、その人口の推移です。過去の文明の地はそれなりの人口を今でも抱えてはいますが、中国以外の文明が発祥した地もそれなりに人口は増えているようです。しかし、それに比べて中国は正確な人口統計が出来ずに推計するしかなかった殷や秦の時代の人口、1000万人から2000万人から、今日の13億に至るまで、時代時代の事情によっていくらかの増減を繰り返しながらも、増加の一途を辿ったわけです。一歩で人口が多いということ自体が、中国に宿命的な問題を包含させることにもつながっています。

 少なくとも約3000年にわたって人口が増え続けたということは、為政者が人民を大切にしてきた証拠です。ロシアのように権力者の暴力的な苛斂誅求によって人口が抑制され続けてきた国と正反対なのです。その人口の食を支えること、つまり人民に食べさせることに歴代の王朝、政権は腐心していました。それを忘れた為政者は滅ぶというのが中国の歴史上の必然でした。だからこそ、わたしは中国を人民の国であると考えるのです。

殷・秦の時代から為政者たるもの人民の生活を保障するということを忘れてしまえば、あっという間に滅びてきたのです。

 但し、為政者が人民として意識しているのは漢民族だけでした。文明発祥の時はともかく時代が下がるにつけて形成されていった所謂中華思想はある意味すさまじいものです。中国の中心部中原に住む漢民族の支配する地域を除く、四方八方全ての地域に住んでいる人間を人間とは考えていなかったのです。つまり人民とはイコール漢民族であり、それ以外はたとえかたちは人間でも人とは見ていなかったのです。今では死語になっていると信じたいのですが東夷・西戎・南蛮・北狄という言葉が中国にありました。東西南北の周りを全て人のかたちをした獣や、朝貢してくる獣よりはいくらかましな野蛮人に囲まれていると考えていたのです。

 一方で中国の為政者は本質的には膨張主義者、領土拡大主義者ではありませんでした。西方や北方の地平線の彼方から突如馬に乗ってやってくる野蛮人から、自分たちの大切な農地を守ることだけに心血を注ぎ、ついに万里の長城まで築くほどでしたが、少なくとも始皇帝の時代から毛沢東の時代まで、彼らの安全保障の眼目は如何に自国民の食の基本である農地を守るかにあったと言えます。

 最後の王朝である清が辛亥革命によって滅ぶことになった後、しばらくはまるで春秋戦国時代のような混乱期もありましたが、国共内戦に現在の新中国が勝利した後、毛沢東が打ち出した「下放政策」も行ってみれば当時の食糧難の可決策としての色合いの濃いものだったし、さらに実は特に西側と北側の国境線が中国にとって脅威だったこともありました。国境の向うには当時のソ連の戦車群がいたのです。そう言うと今では意外な感じもするでしょうが、当時は実際国境線をめぐって紛争さえ起こしているほどです。その頃のやっと内戦を制したばかりの中国は、ソ連の戦車群が国境に張り付いているという事実に、匈奴やモンゴルが責めてきた頃の時代に匹敵するほどの恐怖心を持っていたはずで、それからすれば今日の状況は異次元ともいえるでしょう。そのためにも多くの人民を北方に張り付ける必要もありましたし、所謂辺境の異民族・少数民族を融和的にとりこむことも安全保障上重要な政治課題になっていたはずです。しかし、それもまた中国にしてみれば「人民の海」を守るための「人民」による防波堤だったのかも知れません。

 中国は「秩序」の国です。漢民族と言いますが、実は漢という純粋な意味で独立した民族が存在するわけではありません。「華」を奉じる部族は皆漢民族に迎え入れてきたのです。中国国内に暮らすそれ以外の中国人はそれぞれの固有の伝統文化を有し、場合によっては共産主義とは相いれない宗教を信じている所謂少数民族で、その数は現在56部族だそうです。

 統一王朝の出現以来、漢民族は近隣の別の部族を吸収して強大化していくことになりました。その時、漢民族として迎え入れるか、晦渋しただけの少数民族のままでいるか、さらには朝貢してくる冊封国かの判断は、所謂「中華思想」への傾倒度によっていたと言われ、その傾倒度は儒教・礼教をどの程度奉じているかによって判断されていたようです。新中国は儒教・礼教を否定しましたので、儒教的秩序の代わりに共産主義的ヒエラルキーが秩序の骨の部分として採用されました。そしてそれもその後の改革開放によって少しずつ変化して今日に至っているのですが、では今日の中国の秩序とは何なのか専門家でないわたしには想像もつきません。

 いずれにせよ中国の権力者が大人口に食べさせることと国内の秩序を保つことを念頭に政治を行う以上、本来的に国土を拡大させようという野望など抱いている暇はなかったはずです。そこが、ウラル山脈を越えて東へ東へと膨張することで国力を増大させてきた前近代のロシアと違うところなのですが。

 繰り返しますが中国は少なくとも秦王朝の成立以来も、安定期と混乱期を繰り返してきました。安定期の末期を混乱期に含めても混乱期より安定期の方がずっと長かったのですが、安定期の為政者は常に人民の口を糊することに配慮していたとともに、人民に秩序付けを怠りませんでした。優秀な為政者であれば、腹を減らした人民が政権を揺るがす最も大きな脅威になることは勿論ですが、生活にゆとりのできた人民に自由と奔放な暮らしを許せば、それもまた権力者にとっての大きな脅威になることを知っていたからです。

 漢の劉邦が項羽に負け続けていたにもかかわらず、最終的に価値を得たのも彼が貧しく飢えを知っている人民の海の中から登場したため常に人民のための食を確保することに留意していたからであり、項羽が初めから食の豊かな地域の、しかも高貴の出であったため、人民の生活感とはいささかかけ離れていたことにある、つまりどちらが人民により多く飯を喰わせることが出来たかの違いだったのではないかとわたしは考えています。

 その劉邦ですら統一王朝を作るや否や、今度は人民を秩序付け統制することに腐心し始め、その方法の一つとして「儒教」を採用しています。それ以来、為政者による儒教の政治利用は清王朝の末期まで2000年以上も続くことになるのです。

 辛亥革命後の混乱を制したのは毛沢東でした。かれを劉邦、国民党軍の蒋介石を項羽に喩えれば、その後の新中国誕生の経緯も少しは紐解ける気がします。そしてその毛沢東が政権奪取後、人民の秩序を構築するために採用したのは「儒教」ではなく「民族主義的社会主義」でした。ただ、それまで2000年以上も体にしみこませてきた「儒教」的秩序間隔をそう簡単に変えることはむずかしかったようで、自らプロレタリア文化大革命を始め、孔子の論語の代わりに毛語録を人民に持たせ、人民の食を満たす努力をして見せるため「下放政策」を推し進めたのです。

 毛沢東や周恩来の時代が過ぎ、改革開放政策が始まって以来、中国は豊かな国になりました。13億人の人民が飢えに苦しむ心配は無くなりました。しかし、一方で「秩序」の方は「新秩序」が生まれ育つというところまでには至っていないようです。中国の歴史上、飢えと貧困が無秩序を産むことはあっても、富裕が故の無秩序はなかったようです。そのことの末恐ろしさのようなものを最も強く感じているのは、当の習近平だとわたしは考えています。彼の毛沢東への回帰性も、その反面で儒教・礼教、道教へのタガをつるめるようになったのも、その恐怖心からではないでしょうか。

 ついでに考えると、台湾について習近平が考えていることは太平洋への出入り口を確保することでも、ましてや領土を拡大することでもなく、とにかく統一すること、つまり同じ漢民族がふたつの価値観に分かれていることへの恐怖にも似た嫌悪感を解消したいということだけのような気がします。ちょうどプーチンがウクライナに対して抱いている感情と一方的な政治的・社会的決めつけも同じように、プーチンが手前勝手に同一視している民族の一方が自由主義・民主主義、一方が社会主義・権威主義を信奉することに対する、が許せないということに似ています。

 であればこそ、米国はじめ西側諸国が台湾に肩入れすればするほど、習近平の危機感は高まることになります。中国が大きく変わって現代にあっても、中国の為政者の人民・秩序優先施策の本質は当分変わらないでしょう。そのことを日本としても日本人としても忘れてはならないのではないでしょうか。

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わたしの政策談義

3.「憧れ」と「開拓」の国ロシア

 ロシアについて調べれば調べるほど、ロシアというかロシア国民(特にウラル山脈以西の)が、いかに可哀そうな人々であるかを切実に感じてしまいます。彼の地に人が住み始めてから今日に至るまでずっと、ロシアの人々は梅雨の晴れ間のようなごく短い期間を除いて、侵略・略奪・圧政・独裁に、耐えに耐えてきたのです。表題に挙げているようにロシアは「憧れ」と「開拓」の国です。しかしその「憧れ」にはルサンチマンが、「開拓」には侵略と略奪が明に対する暗の部分として不可分だと、わたしは考えています。それもまた、ロシアの長い長い苦難いうにはあまりにも悲惨な歴史に由来するものだと考えています。

 ルサンチマンとは単なる劣等感や羨望ではなく、そこには望んで敵わない者が抱く怒りを伴う憎悪、復讐心を伴う怨嗟が含まれています。ロシアが何に対してルサンチマンを抱いているかと言えば、それはもちろんルネサンス以降のヨーロッパ、第一次産業革命以降の西ヨーロッパですが、それだけでなくどうもパクス・ロマーナ時代のローマ帝国にまで遡る様です。イワン4世(雷帝)以来のロシアの皇帝は「ツァーリ」と呼ばれていますが、それはローマ帝国皇帝の称号である「カエサル」のスラブ訛りなのです。この紀元前から使われていた称号を自らに冠することにしたロシアの王が見ていたのは、遥か千五百年も前のローマの帝政だったのです。

 ロシアの支配者はその15~16世紀を境にして、それまでは「汗(カン)」であり、その後は「ツァーリ」になりました。しかし、称号は変わったものの支配体制そのものは何も変わらずに、最後のツァーリがロシア革命によって斃れるまで至っています。「汗」の時代は「タタールの軛(くびき)」と呼ばれていたのですが、タタールとは当時の征服者であるモンゴル人のことです。くびきとは馬車や牛車の先に取り付けられた横棒のことですが、馬や牛の自由を奪うという意味で、モンゴル人によるロシア支配の実態を表す言葉なのです。「タタールの軛」の時代はモンゴル帝国の西方拡大時期の13世紀から14世紀の間のことなのですが、それ以前のロシアもまだほとんど原始的な農業の営んでいたころから、西方からやってくる遊牧民に繰り返し破壊的な侵略を受けていたのです。

 今日、世界の正義、世界の常識は4つあります。それは日本を含む「西欧の正義・常識」、その対極としての「イスラム圏の正義・常識」、「中国の正義・常識」、そして「ロシアの」というより「プーチンの正義・常識」です。もちろん、国や地域の数で言えば世界(国連加盟国・地域)の大多数は曲がりなりにも「西欧の正義・常識」を規範としています。国連でよく言われる国際法についても、それは欧州全土を巻き込んだ二つの大戦という悲しくも辛い経験を通して形成されてきたもので、当然「西欧の正義・常識」に基づいています。プーチンもウクライナを侵略し始めて以来、「国際法」をよく口にしますが、彼の国際法は彼個人の凡そ他者には理解できない正義と常識というバイアスがかかっているため、彼以外の人々にとっては強弁や居直りにしか聞こえて来ません。

 ロシアという国は誰もが知っている通り、世界最大の版図を持つ国です。しかし、その国土の大半はシベリアであり、永久凍土地帯です。そして、その広大ではあるが厳しい自然環境の土地を手に入れた経緯が、ロシアという国の生きていく上での処世術のようなものを形作って来たのではないかとわたしは考えています。

 高校の時の世界史の授業で習う歴史上の大きな出来事の一つに民族の大移動というのがありました。その大移動にはいくつかのタイプと主導的な民族がいますが、実態は遊牧民族でした。遊牧というと今日、モンゴルの一部ぐらいしか思い浮かべることは出来ません。遊牧とは人間が自分たちを支える動物たちと共に移動して暮らすことです。放牧を含めた牧畜は家畜にエサを与えながら(それが牧草地を柵で囲って家畜に勝手にエサを食べさせていたとしても)人間が一ヶ所に定住して生活しています。遊牧と牧畜は根本的に違う生産手段であると同時に、生活形態そのものもちがうのです。しかも、遊牧が確立したのは農耕や牧畜に比べて比較的新しいのだそうです。

 遊牧という生産手段はある意味、ユーラシアほどの大陸でなくては成り立たなかったものなのかも知れません。季節によって移動する家畜(と言えるほど飼いならされているのかどうかは別として)と共に移動するのが遊牧民族だとすると、国境などは概念として育つはずもありません。折角、自然に生えている動物の食糧となる草を掘り起こして農地に変えようとする農耕民族は、自分たちの生活圏そのものを脅かす存在でしかなかったのです。

 なぜ、遊牧民族の話をしているかと言えば、ウラル山脈を境にしてその西側の所謂ヨーロッパロシアが、頻繁に起こった民族の大移動にどれだけ虐げられてきたかを思うからです。有史以降、西側から少しずつ進出してきた農業と牧畜の民族によって、ウクライナやベラルーシを含むヨーロッパロシアには次第に農地が広がっていきました。しかしそれはウラル山脈のより東側で動物と共に移動して暮らす遊牧民族から見れば、自分たちの生存そのものを脅かす事態でした。久しぶりに来てみれば、馬やヒツジの好む草が残らず掘り取られ、代わりに麦や蕎麦が植えられていて、しかも、その農地の持ち主たちは武器を持って追い払おうとします。当然ながら、遊牧民は力で追い払おうとしたでしょう。

 西洋史は西側で創られました。つまり、農業民族側から見た歴史です。突然のように現れ、折角開墾した農地を踏み荒らそうとし、自分の家財産を奪い、人命を奪う異民族は脅威であり災厄だったでしょう。しかし、遊牧民族の側から見れば、農耕民族は自分たちの生存権を脅かす悪であり、脅威だったわけです。それが現在のモンゴルからほぼ古代のシルクロードの道筋に沿って攻防を繰り返した遊牧民たちの部族や国家であり、その最も強大だったのがチンギスハーンのモンゴル帝国です。

 モンゴルに攻め込まれる前の9世紀末、ロシアに初めてわたしたちの考える国という概念での国家が誕生したのは、今のウクライナ国の首都キエフを中心にしたキエフ大公国ということになっています。それまでももちろん、その一帯で農業と牧畜を展開していた所謂スラブの人々は、東から絶えずやって殺戮と破壊を繰り返す黄色人種(モンゴロイド)に虐げられていたのです。しかも、その侵略者たちは国家という概念からは程遠い、指導者とその家族や血縁者など少数の貴族と、それに付き従う部族の構成員で成り立つだけの集団でした。「タタールの軛」の軛は本来は動物の自由を制限してコントロールし易くするための道具ですが、侵略され征服され収奪される側にとっては、遊牧の民の存在はそれだけで軛どころか悪魔そのものだったのでしょう。

ようやく対抗するだけの十分な国家としてキエフ大公国が生まれた時、その建国を成し遂げたのは、実はスカンジナビアからバルト海を渡り、南下してきたバイキングでした。バイキングもまた、農業民族ではありませんでした。狩猟や漁業を中心として、あとは南下して裕福な先進農業地帯を襲う侵略者でした。つまり遊牧民から海賊に支配者が変わっただけです。国が成立したというよりは独裁者が交代しただけで、人々が虐げられるということには変わりはありませんでした。その後にロシアに生まれたロシア人による政権もまた国家としての統治機構を、それまでの遊牧民国家やバイキングによる国家と同じく、基本的に征服者とその仲間(貴族)と、農民(奴隷と同じなので農奴と呼ばれています)だけの構造としていました。そして、そのような社会構造は19世紀になって共産革命によってロマノフ王朝が倒れるまで続いたのです。

 遊牧民は馬に乗って高速移動でき、かつ馬で高速移動しつつ強く正確な弓を射ることが出来ました。それが彼らが一時は世界征服した力の源だったのですが、やがて、西側世界で鉄砲が考案されたことで、遊牧民は優勢を失うことになり、東方に押し返されます。なんだか日本の戦国時代の長篠の闘いの顛末のようです。ともあれ、ロシアが鉄砲という新兵器によって力を得ると、ウラル山脈を越えて逆に東側に攻め込むことになるのですが、この時、ロシアの皇帝(王)は金持ちの一人に貴族の地位と権益を条件に東征させます。その貴族(ストロガノフ家)は貴族ですから自分の軍隊など持っていません。それで傭兵を使いました。その傭兵はイェルマークというリーダーに率いられたコサックです。イェルマークは当時ウラル山脈の東側にかろうじて存在していたシビル・ハン国という遊牧民国家を滅ぼした余勢をかって、シベリアを東へ東へ進むことになり、時代が下がるとロシアの領域はベーリング海を越えてアラスカに及びましたが、さすがにそこまでは管轄することが出来なかったのか、1867年3月、720万USドル(2016年現在の貨幣価値に換算すると1億2300万ドル)で米国に売却しています。

 冒頭、ロシアは「憧れ」と書きました。特にイワン雷帝からロマノフ王朝にいたる帝政時代において、憧れの対象はローマ帝国であり、その後継である東ローマ帝国(ビザンチン)だったと、わたしは考えています。但し、その政治体制は皇帝と少数の貴族階級による独裁という単純なもので、元老院制度や護民官制度などは取り入れていません。18ごろからのロシアはウラル山脈を東に越えて、ロシアは領土を拡大し、そこに砦を兼ねた都市を建設していきます。それらの都市はわたしは訪れたことはありませんが、ロシアとは思えないほど緻密で機能的だそうです。それはローマ帝国が版図を広がて行った時、新たに手に入れた領土に軍事拠点と入植者のための居住値を兼ねた都市を建設していったことと重なります。それもまたわたしがロシアの憧れがローマに通じているとわたしが考える理由の一つなのです。

 ロシアは少なくとも人が住み始めた時からずっと農業国でありながら、遊牧民族による彼らから見れば過激で支離滅裂な攻撃と略奪に晒されました。その恐怖から抜け出すことが出来たのは鉄砲という新兵器でした。長い長い略奪と被征服の時代を経て、スラブ民族の国を立ち上げてからも、最後の王朝ロマノフ王朝が革命によって倒されるまで、絶対権力者である王と少数の貴族、聖職者、名誉市民以外は、必要最低限の商人と職人、兵力としてのカザーク(コサック=傭兵)そして大多数の農民(実質は奴隷=農奴)しかいないというような単純な統治機構しか持っていませんでした。そしてロシア革命を迎えソヴィエト連邦を建国しました。やがて、その瓦解と共に元のロシアになったということがそれがあの国の歴史のあらすじです。そこから現在の西側諸国の国際感覚や国際社会常識との乖離が生まれるべくして生まれたと考えることは出来ないものでしょうか。

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わたしの政策談義

2.自由と正義の国米国

 米国は自由と正義の国というと、首を傾げてしまう方もいることでしょう。わたしも本当にそうなのかについては疑問に思う一人です。しかしながら、米国はピルグリム・ファーザーズによって建国された国です。そのことを思えば、現状がどうであれ米国のアイデンティティーでもありコンセプトでもあるのは自由と正義であると言わざるを得ません。

 ピルグリム・ファーザーズのメンバー総勢102人を乗せたメイフラワー号が北アメリカ大陸に到着したのは1620年11月です。彼らは英国国教会からの分離を求め、国王の弾圧を逃れるために母国を離れたキリスト教徒(清教徒・分離派)で、彼らの信じる教理に基づいた理想的な社会を建設することをめざして新天地を求めたのです。英国国教会の軛から逃れることはつまり自由を求めたことになりますし、彼らの信じる教理とは彼らにとっての正義にほかなりません。

 余談ながらピルグリムとは巡礼者という意味だそうです。彼らのすごいところは船がまだ北米大陸に到着する前に、自分たちの政治体制を確立する契約書(メイフラワー誓約)を作り、署名を取り交わすことによって国を成立させていることです。つまり、彼らが新天地に足を下した瞬間から、彼らの国は成立していたということになるのです。この時に多数決という民主主義の根幹をなすルールさえも確立していました。但し、ピルグリム・ファーザーズ中61人は女性と子供だったのですが、子どもは勿論、女性にも投票権はありませんでした。102人中、この建国の契約書ともいうべき、メイフラワー誓約に署名したのは成人男性41名だけだったのです。

 1620年と言えば、日本では徳川幕府の黎明期で2代将軍秀忠の時代、翌年には島原の乱が勃発しているという頃です。その同じ時に米国ではたった102人の国が、契約書に基づいて産声を上げました。ただ、わたしが注目する人物が一人います。それは41人の署名者の一人なのですが、彼の名はマイルス・スタンディッシュといい、実はピルグリム(巡礼者)ではなく、れっきとした英国軍人で、軍事の責任者として雇われて参加しています。つまり、米国はその国としての産声を上げた時から、軍事部門を明確に有していたということになるからです。

 その後、英国の植民地としての紆余曲折を辿って、1776年7月4日に米国は正式に独立を宣言しました。その頃、日本は第10代将軍家治の治世で、有名な田沼意次が老中として権勢を誇っているころでした。米国の独立の際の宣言文で注目すべきは前文で謳われている「全ての人間は平等」と「生命、自由、幸福を追求する権利は不可侵・不可譲の自然権」でしょう。しかし、わたしは米国を自由と正義の国とは言いましたが、その宣言文の第一に掲げられている「平等」の国とは思っていません。平等について高らかに宣言していることに、むしろ、米国の正義の矛盾と手前勝手さを感じるのです。その当時の女性の権利はどうだったのか、やがて始まる奴隷制度によって連れてこられた黒人たちの権利はどうだったのかと思わざるを得ないのです。そのことは米国の病巣の一つとして黒人差別、LGBTQ迫害など根深い社会問題を今日に至るまで引きずって来ているのですから。

 17世紀の建国当時に理想としていたもの、さらには18世紀の独立当時に理想としたものそのものについても、その時から破綻する宿命を抱えていたわけですが、それはそれとして理想を掲げて合意に基づいて建国し独立しようとする姿勢は、同じ民主主義の国である日本とは対極にあるとは言えるでしょう。

 わたしたちが生きる二十一世紀の時代において、当時の理想の追求によって生まれた米国のコンセプト「自由」と「正義」は、今日「横暴」と「偽善」の誹りをうけるようになりました。しかしそれは今に始まったことではなく、米国の国としての成り立ちそのものが成せる業であったと言えそうです。ピルグリム・ファーザーズのコミュニティー結成段階で、軍事の専門家をその部門の責任者として、雇い入れてまで同行させているのです。新天地で遭遇するかもしれない外敵からの防衛に必要だからということでしょうが、専門家は専門家の立場上、常に戦闘を意識せざるを得ません。自身の存在意義を追求しようとすれば常に仮想敵を想定し、あるいは防衛のためにと称して先制攻撃を仕掛けることもいとわないことになりかねません。ベトナム戦争、イラク侵攻などなど、そのことを証明する戦争には枚挙にいとまがありません。

 その米国は敗戦後の日本にとって最も関係の深い隣人でした。太平洋戦争の終結後、日本が復興期にあった時には、米国は正に聖書の教え通りの良き隣人でした。ララ物資によって始まった学校給食一つとっても、わたしたちの今日あるを助けた大きな要因であったと言っても過言ではないでしょう。しかし考えてみると、日本と米国の出会いは、その始まりからして、決して幸福なものではありません。日本の歴史に初めて華々しく登場した米国人であるペリーにしても、世界史的に俯瞰してみればその登場の仕方は滑稽でさえありました。彼のやったことには米国の建国以来の精神である善意と力を背景にしたおせっかいの好例であったと言えでしょうか。米国側の都合や理屈はともかく、当時の日本側の視点に立てば、それまで270年間もの間、長崎という例外を除いて、外国を意識せずに安穏に暮らしてきた人々の、その中心である江戸の下町の長屋住まいの家族がちゃぶ台を囲んで夕餉の団欒を楽しんでいる時に、突然、テンガロンハットのガンマンが引き戸を蹴破って侵入してきて、拳銃をぶっぱなしたのです。その時の江戸の庶民の慌てようを想像するだに、不謹慎ながら可笑しみさえ感じさせてしまいます。そこから幕末・維新のてんやわんやが始まり、結局は明治維新となり日本の近代国家へのルネサンスが始まったのではあるのですが。

 米国は確かに自由と正義の国です。しかしながらその自由とは一面、圧迫を受けていた清教徒が、その束縛から解放されるために得ようとしたものであり、その正義とは自分たちの信じるキリスト教の本義に忠実であろうとしたものだったといえるのです。信教に於ける正義がそれを信じない人々には容赦のないものであることは、昨今の国際、国内紛争の多くが示してくれています。同時に米国における自由が一切の束縛を受けることを、もはや本能的ともいえるほど忌避ことも、建国の謂れを考えれば何となくうなづけることではないでしょうか。

 わたしは正義という言葉が好きではありません。ひとつの共同体の正義が別の共同体の正義と拮抗したり真逆であったりすることがあるという現実に、そのどちらの側の共同体の構成員であっても、結局は皆が苦しめられてしまうと感じるからです。また平等あるいは公平公正を伴わない自由も認めるわけにはいきません。米国がこれまで国際社会で犯した数々の過ちももちろんですが、むしろ自国内に内包する矛盾と軋轢について特にそう思います。

ともあれ米国は第二次世界大戦終了後、冷戦時代を含む20世紀後半を通して、誰が頼んだわけでもないのに自由主義世界、資本主義世界のリーダーを自任してきました。それが21世紀に入ってすぐ9.11が起こり、少なくとも世界の警察としての権威が失墜し、トランプが登場するに至ってアメリカ・ファーストを言い出し、自ら世界のリーダーも世界の警察の任も降りてしまいました。結果として米国に引きずられるようにして、G7が本来の意味通りの単なる7か国の仲良しグループ(Group of seven)なってしまいました。G7がgroup of sevenではなくgreat sevenだと世界中から認められて、尊重されていたからこそのG7だったのです。そのG7の筆頭である米国が自らリーダーを降りたため、他の6か国とEUも自由主義世界、資本主義世界の先頭集団ではなくなったわけです。G7がGゼロになって良くも悪くも、これまであったはずの秩序を失ったのです。

 ではどうすれば新しい秩序を生み出せるのかですが、その前にもう少し、日本を取り巻く国々について、わたしなりの考えを再確認させてください。米国の次はやはりロシアでしょうか。

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