わたしの政策談義 12.外交について(承前)

12.外交について(承前)

 外交について語ろうとして、現在のパレスチナの状況の背景に思いを馳せるのは、外交というものが、それほど悪魔も顔負けするほどの非人間的策略でもあると言いたかったからです。しかも、その欺瞞と裏切りをも厭わない策略の行使である外交が破たんして戦争ということになれば、非人道的連鎖が果てしなく続くことになることを、ガザの子どもたちの命を代償にしてわたしたちに教えています。

 さて、嘆くばかりでは未来は見えてきません。そこでわたしなりに日本の外交について提案したいと思います。キーワードはポリシーとして「平等主義」、手法として「脱欧米入アジア」の二つです。

 平等主義は「人権」と「多様性」の平等ということです。歴史は文字が生まれてからのものしか、わたしたちは接することができませんが、その歴史の始まりからずっと人間同士の争いは、自分たちの属しているコミュニティーの外にいる人間の生存権、つまり基本的人権を否定もしくは軽視することから生じてきました。その一方でいつの時代にも指導的役割を果たす人々の中には、その他者の人権をも認めることこそが自分たち自身の平和を保障し、生活の安定を図ることに通じると考える人々も少数ながら存在してきました。その少数の人々の声を、他の大多数の人々が聞くかどうかが、そのコミュニティー、国や民族や同盟国の平和が実現するかどうかにかかってきたこともまた、歴史が証明しているだけでなく、現在進行中のユダヤ人の宿痾が世界中の人々の心に直接示しているところです。

 他者の人権を認めることは、実は「言うは易く実行するは難し」です。わが身を削って他者を養うということは、ある意味生き物としての性から言えばあり得ないことかもしれません。しかし、わたしたちは人間です。人間としての知恵と情を持っています。その知恵はわたしたちに他者と物を分け合うということを教えてくれますし、情は惻隠の心を抱かせてくれます。もちろんそれが施しであったり、哀れみであったりすることもあるでしょう。それはそれでかまわないのですが、平等かどうかという視点からは施しではなく、助け合いであり協力でなくてはなりませんし、哀れみではなく共感や同情でなくてはならないとわたしは考えています。それが国レベルの関係において普遍の感覚になれば、この地球上から戦争も侵略もなくなるはずなのです。そんな夢みたいなことと思われるかもしれませんが、実は侵略も戦争も突き詰めていけば、国レベルの、国の指導者レベルで、その知恵と情を喪失するところから始まるものであり、だからこそ、というかそれほど単純なところから始まるからこそ、人間の歴史は戦争の悲劇に血塗られることから逃れられないのだとも、わたしは考えています。

 今、SDGsの考え方が広がっています。もともとは地球環境を守るということを目的にした考え方なのですが、常々、わたしは17あるSDGsの目標を一言で言うならば「他者を慮る」ことだと説明してきました。その目標の最初は「貧困をなくそう」であり、以下「飢餓をゼロに」3「すべての人に健康と福祉を」4「質の高い教育をみんなに」5「ジェンダー平等を実現しよう 」と続いています。これらSDGsの目標こそが、つまりは世界レベル、地球レベルの平等主義であり、人権尊重なのです。

 ロシアとウクライナの確執の歴史、中東の置かれている複雑な事情などを考える時、そう一筋縄でいくものではありませんし、それどころか周辺国や大国の思惑も次第に危険域に入ってきているかもしれまでん。それでも、今こそわたしたちは人間としての知恵と情を発揮して、命を守り、地球を守らなくてはならない時です。そして、その目安としてSDGsの17の目標をそれぞれの立場で考えなくてはならないと考えています。

 そこで日本人であるわたし達について考えると、迂遠ではありますが「脱欧米入アジア」を提唱したいと思います。「脱欧米入アジア」とは明治期の日本が唱えた「脱亜入欧」のアンチテーゼです。とは言っても昭和初期の軍国主義から生まれた「八紘一宇」の考え方とは一線を画すものだと考えます。「八紘一宇」についてはいずれ考えるとして、ここでわたしが言う「脱欧米入アジア」とは、要するにご近所と仲良くしましょうということです。

 もちろん、明治の日韓併合や昭和初期の中国侵略、満州国建国などなど、日本人が犯した多くの過ちを、隣国の国民に中には未だに許す気のない人々が少なくありません。日本人の側も、半島を蹂躙していた関係者が未だ存命であったことを理由に、なかなか過去の清算をしようとしません。昭和史、特に太平洋戦争の経緯について多くの書籍が出版されているにも拘らず、未だに昭和初年から敗戦までの日本史は公式見解ともいうべき結論は出ていません。それどころか、ややもすると戦争を肯定し美化しようとする勢力が、未だ後を絶たないのは国際常識からするとはずかしいばかりか、この国をまたあの戦争の狂気と混乱に導こうとしているのを絶対に許すことはできません。

 1997年に「働き方改革」なる「働かせ改革」が始まって以来、その政策によって、わたしたち日本人の特に若者の生活を苦しめ、未来への希望を摘み取ってしまいました。それ自体も由々しき問題ではありますが、結果として、それまで日本にあこがれさえ感じていたアジアの国々も日本に失望するとともに、そのためにアジア全体が混迷さを増している今になって、日本はよい意味での影響力を発揮することができなってしまいました。 しかし、わたしは思い出しています。1981年7月16日にマレーシアの第4代首相に就任したマハティール・ビン・モハマドが同年の12月15日に表明した「ブミプトラ政策」が、その内容から「ルック・イースト」と呼ばれるようになりました。ルック・イーストのイーストが日本を示す言葉であることは有名です。当時、マレーシアは国際的には旧宗主国イギリスとの間で対立があり、国内的にはインド系と中国系の住民たちとの間での確執、経済が低迷するなどの問題が深刻化しつつありました。その時にマハティールは「日本人を見よ」と自国民に呼びかけたのです。「日本人は敗戦後の社会の混迷を克服して今の繁栄を創出した。それは自分たちを卑下することなく、誇りと信頼を糧にして、一丸となって前進したからこそである。わたしたちもマレー人としての誇りを取り戻し、胸を張って国の繁栄のために働こうじゃないか」というのが「プミプトラ政策」の根幹であり、それが「ルック・イースト」と呼ばれる事になったのです。ベースボール世界大会の時に大谷翔平選手が「もうあこがれるのはやめにしよう」とチームメイトに呼びかけたと聞いたとき、マハティールの言葉と通じるものがあるとわたしは感じたものでした。

 敗戦から10年で「もはや戦後ではない」と言うコンセプトが生まれ、20年で経済成長、さらに「高度経済成長」が始まりました。1ドル360円に固定されていた対ドルレートが、1973年から変動制に移行しました。その当時は1ドル307~8円くらいでしたが、1995年のピーク時には1ドル=79円75銭を記録しました。マハティールは「ルック・イースト」と自国民に呼びかけた時の円ドルレートは1ドル230~240円でしたから、日本はまだまだ成長期だったのです。マハティールは金持ちである日本人に学べといったのではなく、自分たちと同じ境遇でありながら、自助の精神で成長を続けているその姿勢に学ぼうとしたのです。

 残念ながら、現在の日本は政治の混迷、経済の停滞で、とてもアジアの優等生ではなくなってしまいました。しかし、それでもわたしたちがアジア人の一角にいることは変わりありません。今こそ、経済力に頼るのではなく、自分たちの矜持を取り戻さなくてはならないのです。その上で欧米へのあこがれを捨て、正々堂々と正しいことを互いに学び、自らの過ちを含めて間違ったことは、間違っていると真摯に正確に指摘するという姿勢を見せることが、アジアの仲間の信頼を強固にする最善の方法だと考えるのです。

 第2次世界大戦後、ことに米中、日中の国交が回復した1970年代当時と現代では、中国の存在感は大きく変わりましたし、台湾をめぐる情勢も様変わりしています。また、インドの成長は著しいものがあり、しかも今後数十年はその成長を続けることでしょう。日本がアジアのリーダーであるとの自尊心は捨てなくてはなりませんが、それでも、日本がアジアの優等生であるという認識は、ほかならぬアジアの人々が未だに強く抱いているのです。その期待に応えるために、わたしたちはどうあるべきかを考える。それがわたしの言う「脱欧米入アジア」です。

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わたしの政策談義 12.外交について(その2)

2.外交について(ガザに思うこと)

 10月7日早朝に始まったハマスとイスラエルの戦争は、わたしにとってもウクライナ以上につらい哀しい出来事です。しかも、見る見る泥沼化して双方の死者は2万人を突破し、特にガザのパレスチナ人側には多くの子どもの犠牲者がでています。戦争の勢いはとどまるところを知らず、とうとう年を越えてしまいました。わたしはエジプトで仕事をしていた時にパレスチナ人に顔見知りができました。ガザのエジプトとの国境検問所のあるラファまで行ったこともあります。パレスチナの子どもたちのはっきりと未来を映し出している瞳とはじけるような笑顔を忘れることはありませんでした。

 また、アレキサンドリアのわたしのアパートのご近所にお住まいだったWHOの日本人医師はわたしの尊敬する友人ですが、今でもガザ地区で保健衛生の支援活動を行っていますので、ガザの事情に無関心ではいられません。

 一方で、わたしはイスラエル人にも親しみを持っています。ブラジルにいる頃には、各地でユダヤ系の移住者やその子孫と友だちになりましたし、イスラエルからブラジルへ留学していた学生さんとも交流がありました。

 中東の民族間の確執は、1948年のイスラエル建国によって顕在化し、流血と破壊の歴史を繰り返してきました。しかし、ユダヤ人とそれ以外の民族の間の抗争は何も20世紀から始まったものではなく、紀元以前からくすぶり続けていました。民族間と言いましたが、現在のパレスチナ地域を中心とした中東には、ユダヤ人の他、大きく分けてもフェニキア人、古代パルティアと呼ばれていたペルシャ人やシリア人、トルコ人とクルド族、エジプト人が入り乱れて住んでいましたし、アレキサンダー大王の東征についてきて定住化したギリシャ人、ローマの拡大によって移り住んだローマ人などなど、多くの人種・民族が複雑に絡み合ってきました。さらにキリスト教が発祥し、それがローマ帝国によって迫害を受けながら、やがて国教として採用されるに至り、ユダヤ人はキリスト教徒の憎悪と蔑みの対象となっていきます。さらにムハンマドがアッラーの神を唱えるようになると、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖地であるパレスチナの争奪戦が始まり、中世に入ると西ヨーロッパを中心としたキリスト教国が、イスラム教徒に占領されていたパレスチナの地を奪還するために十字軍を編成して遠征してきました。近代に入って中東西部で石油が発見されると、中東は単に宗教的聖地の確保のための戦争の場ではなく、経済戦略のための領地の奪い合いとなり、第1次世界大戦から第2次世界大戦終了まで、英仏を中心とした列強の手前勝手な支配が続いたのです。

 第一次大戦時代の頃の英雄として有名なアラビアのロレンス、トーマス・エドワード・ロレンスの晩年の告白でも、そのことがはっきりと分かります。英国はアラブ人に対しては、英国にとっての敵国であるオスマントルコ帝国と戦えば、アラブ人の独立と建国を認めると約束して、ロレンスを送り込みました。一方でパレスチナ人とユダヤ人が混住していたパレスチナの地に、ユダヤ人が独立国を建国することを認める約束をしていました。それにもかかわらず、第二次大戦中になるとフランスとの間で、中東を分け合おうとしていたのですから、二枚舌どころか三枚舌と言えるのではないでしょうか。イスラエル建国の約束そのものが、ドイツとの戦いを有利に進めるために使った英国の二枚舌の産物だったのです。英国とフランスの間で交わされたサイクス・ピコ協定という密約は、本来中東の関係国にとって絶対許されない大国の裏切り行為でした。個人としてのロレンス自身はひとりの人間としての良心の呵責に堪えられなくなるのですが、それで済む話ではありません。彼の母国である英国のやったことが100年経った今世紀になっても、非人間的な悲劇の連鎖を生んでいるのですから。

 イスラエル人とユダヤ人にとには厳密にいえば違いがあります。あえて単純化して言うならば、古代イスラエル、現在のパレスチナに住んでいた人々の中でユダヤ教を信奉する人々がユダヤ人です。そのユダヤ人は紀元前から今日に至るまで、差別と迫害、収奪と虐殺の歴史に血塗られています。旧約聖書の出エジプト記の記述、バビロン捕囚、ディアスポラ、レコンキスタ運動の際の異端審問所、ロシア帝国とその後のソ連による迫害と土地の収奪(ポグロム)、ヒトラーによるホロコーストなど、わたしたちが知っているだけでも、数えきれないほどの悲しい事項があげられます。そのことを思うと、同情の気持ちを抱かざるを得ないのですが、それでも、現在ガザに起こっているイスラエルによる住民虐殺ともいえる掃討作戦を考える時、ユダヤ人のためにこそ、現在多くのユダヤ人が抱いている考えを改めて欲しいと思っているのはわたしだけではないでしょう。

 ユダヤ人たちは過去の経験から自衛のためとは言え「自分たちだけは殺されてはならない」「自分たちの土地だけは奪われてはならない」と考えています。その「自分たちだけは」」という考えを改めなければ未来永劫、ユダヤ人の安寧はないと言わざるをません。そして、このことこそがユダヤ教、キリスト教、イスラム教という同根の宗教の確執とは関係なく、世界中の人間が忘れてはならないことです。自分の、自分たちの命と、他者の、他国人の命を同等と考えることが何より平和実現の根幹です。

 肌の色も、住んでいる国も、信じている宗教も、あるいはマジョリティーであろうがマイノリティーであろうが、全ての人が自分たち以外の人も同じ人間であるということに思いを馳せることができれば、殺し合いなど起こるはずもありません。ミサイルであろうと高性能の砲であろうと、ボタンを押せば、その先にどんなことが起こるかということを想像できる指導者や政治リーダーの下では、戦争は起こらないはずなのです。

 (続く)

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新年の挨拶と議会報告

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わたしの政策談義 11.外交について(その1)

11.外交について(その1)

 平和を保つために最も重要なのは軍備ではなく外交であることは言うまでもありません。しかし、戦争を避け平和を保つための外交は、知恵と忍耐によってのみ叶えられるものであり、時には悪魔の所業にも匹敵するほどの駆け引きと誑かし合いを覚悟する必要があります。まして今日の世界情勢の中では「敵の敵は味方」という論理が複雑に絡み合って、外交の場に快刀乱麻の手腕を期待することはできなくなりました。

 戦争は外交の一形態と言われています。内実はともかく表面上は静かな戦争が外交であり、それが破たんした時に起こる熱く激しい外交が戦争なのです。トルストイは19世紀に大河小説によって「戦争と平和」という永遠の命題を世に問いました。人間が定住生活を営むようになってから今日に至るまで、いかにして戦争を回避するかということは政治にとっての最も重要な課題でした。しかしまた、その裏で実は戦争と平和は正しくあざなえる縄の如く表裏一体であり、不可分な事象ともいえるのです。

 平和状態を保つ頃がどんな状況下においても最優先され、なおかつそれが最善の防衛策であることは論を待ちません。何があっても、どんな状況下でも戦争にならない状態を保つことが平和ということです。そしてその平和を維持できるかどうかは、須くその国の外交能力の如何に掛かっていることは今更あらためて確認するまでもありません。言い換えれば、どんな状況下であろうとも、またどんな背景があろうとも、先に引き金を引き、先にミサイル発射のボタンを押した方が、自らの外交能力の無さを露呈したことになり、より強く避難されるべきです。

 近代までの戦争はもっぱら専門職である軍人兵士の戦いであり、市民が犠牲になることはほとんどありませんでした。戦争に最小の犠牲で勝利することが当時の政治家にとって、最も重要な手腕だとされ、それがその国の外交力だとされていました。そのため、戦争に勝つためにはどうすればいいかと考えるばかりで、戦争を回避するにはどうしたらいいかという考えに多くのエネルギーを割くことをしていませんでした。

 第二次世界大戦を勝利したチャーチルやF.ルーズベルトなどでさえ、外交交渉を戦争回避のためにするのではなく、戦争に勝つための戦略の一環として展開した政治家でした。しかし、核兵器のみならずドローンやAI兵器などが登場するに至って、戦争は始めたら最後、市民を巻き込み市民を犠牲にして、終わることのない殺戮と破滅でしかなくなりました。正義の戦争などはありません。愛国心によって引き起こされた戦争などというものもあり得ないのです。戦争は破壊と殺戮の応酬以外の何物でもなく、そこから生み出されるのは悲しみと憎しみ、絶望と怨恨の連鎖であり、地球を破壊し果ては人類の破滅なのです。

 外交に3つの思考段階があるとしたら、それは1)国の未来をかけた戦略、2)状況を見極めて取るべき方向性を見出す戦術、3)人心(国際世論)を掴みつつタフネゴシエーターとして臨む交渉術だとわたしは考えています。

 ロシアによるウクライナ侵略戦争が始まってから以来1年以上を経過しても、収束の気配すら見えません。それどころかプーチンは未だに核戦争をちらつかせて国際社会を脅しにかかっていますし、極東では北朝鮮の挑発的な示威行為も激しさを増してきました。トルコでは犠牲者が5万人を超す大地震が発生しましたし、新型コロナ感染症がやっと一息つきそうだという矢先、今度は中東の火薬庫にまた火がついてしまいました。今後、世界がどうなっていくのか五里霧中の日々が続くばかりです。

 国会議員でも外交官でもないわたしには、ここで結論めいたことを言える資格も能力もありません。さらに外交とは流れる水と同じで刻々と移ろいでいく国際情勢と、その時々における隣国との関係を、どう観察し、どう判断し、どう行動するかも変わっていくものと考えています。それでも日本の自主外交について語るためには少なくとも周辺の状況について、少し学んでおこうと思い、これまで日本とその隣国である米国、ロシア、中国、朝鮮半島の2国について、わたしなりに調べてきました。

 その上でもう一度言いますが、外交というものは刻々と移ろいでいるものであり、その都度、臨機応変に即座に判断していかなくてはならないものです。つかみどころがないとも言えます。しかもそれは5年10年という短いスパンの話ではなく、一国の、そしてそこに暮らす億万人の国民の未来を左右するものです。刻々と変わる状況の変化に即応するということと、長期の展望に立って判断していくべきということは矛盾しているようですが、それが外交というものではないでしょうか。

 では何が最も大切かというと、まず、国のリーダーが些事に動じない不動心を持つことではないかと考えます。しかしながら、封建社会から君主制社会へ移行しつつあった時代ならともかく、民主主義の世にそのような外交の最高責任者など望むべくもありません。また、一人の人物に何もかも委ねるというのは、かえって怖い話でもあります。また、民主主義社会の国民が、只でさえ商業主義にどっぷりつかっているマスメディアやSNSに、どれだけ扇動も誘導もされやすいかを、わたしたちはこれまでいやというほど経験してきました。

 本来なら国としてのポリシーというか哲学のようなものから考えて行くことが基本とは考えますが、基礎自治体の行政ばかりを念頭に活動しているわたしには、形而上学的に外交をとらえる力はありません。そこでそこを飛び越して、まず戦略的な考察をしていけば、自ずとわたしたちの国の本質にまでたどり着けるのではないかと、いささか居直りではありますがそう思っています。

 では、わたしの考える外交戦略とは何か。それは①3ず外交(侮られず、嫌われず、疎まれず)日米安保条約とその付属文章である日米地位協定という昭和の「不平等条約」の改正③アジア重視(脱欧入亜)④平等に視点を置いた人権重視主義という四つの柱です。そこでその一つ一つについて、わたしの考えを書いてみたいと思います。

①3ず外交(侮られず、嫌われず、疎まれず)

徳川300年(実際には270年)の封建制度下の太平の世から目覚めた時、玄関のドアをけ破って入ってきた黒船4艘に彼我の軍事力の差を見せつけられたことで、日本人の多くは恐れおののき、また別の多くは過剰に攻撃的になりました。また、開明的な少数の日本人は冷静でしたが、それでも「侮られてなるものか」という意識を抱きました。

 明治維新後も日本人の確固たる信念は何より「侮られてなるものか」であり、「国」のかたちを急ぎに急いで欧米と同じ「国家」に建て替えようとしたのも、幕府が屈服する形で結ばされた「日米通商修好条約」をはじめとする不平等条約の改訂に力を注いだのも、欧米列強に「侮られてなるものか」という矜持のなせる業であったと言えるでしょう。

 その当時、中国大陸は欧米列強から「侮られた」結果、蚕食状態に植民地化されていました。朝鮮半島はまだ太平の眠りについたままでしたが、既にロシアなどが虎視眈々と狙っている状態でした。その後、今日までの日本と朝鮮半島のささくれだった関係を考える時、3ず外交はまた、「侮らず、嫌わず、疎まず」と言えるのかも知れません。

②日米安保条約とその付属文章日米地位協定という昭和の「不平等条約」の改正

2010年6月、当時の民主党政権の首相だった鳩山由紀夫氏が辞任しました。いくつかの問題が背景にあったとはいえ、辞任を余儀なくされた最大の理由は普天間基地の辺野古への移転計画でした。「最低でも県外」という彼の発言はまるで流行語のようになり、当時の野党(自民党や公明党)側からの鳩山降ろしの攻撃の格好の材料とされました。同時に民主党が「脱官僚政治」という基本施政方針を掲げていたことによって離反していた霞が関のサボタージュと相まって行政府が機能停止状態に追い込まれ、さらには与党側の社会民主党の政権離脱にとどめを刺されました。

 彼の「最低でも県外」という発言が鳩山政権の致命傷になったのは、日米安保条約であり、日米地位協定の存在なのです。現在、沖縄県知事の玉城デニー氏が沖縄県民の総意と国の強引な姿勢の間で板挟みとなって、孤軍奮闘していますが結果は見えています。沖縄県民以外の本土に暮らすわたし達が沖縄の現状を理不尽と思い、その思いを政治にぶつけて行かない限り、安保条約と地位協定を憲法よりも上位と判断している最高裁のもとでは、司法の場でも勝ち目はないのです。

 そうなんです。日米安保条約や日米地位協定は、実はいつの間にか日本国憲法より上位の法的根拠となってしまっているのです。1951年当時、日本はまだ占領下にあり勿論自衛隊のような自前の国防軍も持っていませんでした。その状況下で締結された安保条約は、日本に独立を認める代わりに米国のそれまでの権益(特に軍事上の)を全て保障することを目的としていました。60年の条約更改、70年の条約更改の時も米国による実質的な占領と支配であるということへの、多くの日本人の抵抗はありましたが、結局肝心の部分はそのままになりました。

「日米安全保障ガイドライン」が共同宣言という形で公表され、1991年の冷戦終結時には沖縄の負担軽減についても、日米でまじめに語られるようになっていました。しかし、2001年に起きた米国同時多発テロによって、そのムードもあっという間に凍り付いてしまって、今日に至っています。

 日本は世界第2位の経済大国などとおだてられ、のぼせ上っている間に、「思いやり予算」などといういい加減な名称で、米国の一方的な都合で日本に駐留してきたはずの米軍の駐留費まで肩代わりするようになりました。今では肝心の経済力ですら、人口の多い中国だけでなく、人口も国土も日本よりずっと小さいドイツにさえ後れを取るようになってGDP世界第4位になりましたが、在日米軍を日本の予算で支えているという構図は変わりません。

 在日米軍の人数は正確なところは判りません。なぜなら、彼らは日本の出入国管理の外にあり、いつでも何人でも自由に出入りできるからです。それでも陸海空に海兵隊を合わせた人数は約4万5千人ほどだと公表されています。その内約2万3千人、つまり約半分が沖縄に駐留しています。

 わたしは普天間基地に駐留する海兵隊に特に注目しています。沖縄にいる米軍2万3千人の内1万5千人が海兵隊員です。その数は日本に駐留する海兵隊員の約9割に達しています。また、米国の海兵隊員の数は全体で約18万人ですから、約8%が日本に駐留していることになります。

米国の海兵隊はアメリカ独立戦争中の1775年に設立された大陸海兵隊を起源とする軍隊ですが、現在では本土の防衛ではなく外征専門部隊になっています。第2次世界大戦では敵地に強行上陸を行う水陸両用作戦を担ったことなどから「殴り込み部隊」とも呼ばれています。その敵地に殴り込むことだけを任務とする特殊部隊が、日本のそれも沖縄に集中して駐留していることの異常さについて、わたし達本土の日本人はずっと知らぬ顔をし続けてきたのです。

 米国は建国以来の民主主義の国であり、理想主義の国だったはずです。しかし、今世紀初頭に起った同時多発テロによって米国は一変してしまいました。それでもわたし達は日本国政府だけでなく米国世論に対して、日米安保条約とその付属文章である日米地位協定の持つ矛盾と理不尽さを、粘り強く訴えていかなくてはなりません。日米が本当の意味で良きパートナーであり続けるためにも、両国が世界の国々から信頼される国であるためにも、それが残された唯一の方法だとわたしは考えています。(続く)

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わたしの政策談義 10.防衛について(2)

 繰り返しますが、究極の防衛とは攻撃することも攻撃されることもない状態を保つことです。それこそが平和を維持するということだとわたしは考えます。だからこそ平和を維持するということは、並大抵の努力ではできません。しかも一度平和の状態が破綻、つまり戦争が始まってしまえば殺戮が殺戮を呼び、非人間的な憎しみと果てしない殺し合いが続くことになることを、わたしたちはウクライナでの出来事によって、改めて目の当たりにしているのです。

 どんな国の人々であれ、国民、市民、一般人と呼ばれる人々は、朝起きて、その日一日生ていることに喜びと誇りを感じる仕事や役目に就き、一日の終わりには心地よい疲労感と共に愛する家族との団欒を過ごし、心安らかに眠りに就くという日々の繰り返しだけを望んでいます。ところが、その日常の連続の中で、忘れがちなほんの少しの注意を怠ると、どんな政治体制も為政者の下でもすぐには気が付かないほど目に見えない政治的な失敗や混乱によって、日々の暮らし向きが徐々に徐々に悪くなっていきます。そのことに気が付かなかったり、あるいは気が付いても声を上げたり、具体的な行動をとることをためらったりしている隙に、その失策や混乱を作り出した権力者は自分の地位や力を守るために、その失敗を糊塗し自らの失敗によって生じる混乱の分だけ権力強化を図ろうとします。その目に見えないほどの変化が嵩じて、やがて権力者は自らに絶大な力を集中させなくてはならなくなり、その力を維持するために平穏な日々を希求しているはずの国民、市民を統制するようになります。その行きつく果てが戦争なのです。権力者は自分の権力への内からの攻撃を外へと逸らすために外に敵を作ります。そして権力者自身も自分の作った敵の存在に引きずられて、結局は戦争という政治の最も愚かしい一形態を選択することになるのです。

 戦争は平和で安定した生活から、突然生まれるものではありません。わたしたちが安定した安穏な生活を持続させるために、多くの矛盾や疑問を無視したり、気が付かないふりをしている間に、権力者たちによって戦争への道へと導かれ、気が付いた時には抗うこともできずに、自分や自分の大切な子どもたちを戦場に送ることになるかも知れないのです。権力者と言いましたが少なくとも民主主義の国においては、わたしたちはわたしたちの代表としての為政者を選ぶことが出来ます。逆に言えば、権力者はわたしたちが作り出しているのです。だからと言って油断が出来ません。ヒトラーはワイマール憲法という当時としては最も進んだ民主主義を具現化していた憲法を持つドイツで、最初は曲がりなりにも民主的な手続きを踏んで生まれました。ウクライナに侵攻したプーチンにしても、彼もまた選挙によって選ばれて大統領になったのです。

 プーチンは反ナチズムを標榜してウクライナに攻め込んだのですが、ロシア国内でさえ、21世紀の今日、ナチはどこにいる。ヒトラーは誰なのかと問われれば、多くの人がプーチンを思い浮かべることでしょう。もちろん今のロシアでそれを口にすることは、命に係わるほど危険なことです。その危険性こそがロシアが専制国家であるということの証左に他ならないのです。

 もっともその国の軍隊が自国民に銃口を向けるということは、めずらしいことではありません。仏教と微笑の国ミャンマーは勿論、しょっちゅう内戦が起こっているアフリカ諸国でもそうです。本来軍備は自国防衛のためのはずですが、軍隊が暴力組織である以上本末転倒してしまう宿命にあるのです。

 さて、国の防衛を考える時日本の場合、自衛隊を抜きに語ることは出来ません。自衛隊は1950年、つまり日本がまだ占領下にあった年に占領軍である連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の政令によって、準軍事組織として設置された警察予備隊を起源としています。その警察予備隊は日本が独立を果たした1951年の翌年1952年に保安隊という名の組織に改編され、さらに2年後の1954年に陸上自衛隊となりました。同時に保安隊と同時に編成されていた警備隊が海上自衛隊になりました。

 ではGHQがなぜ占領下の日本に準軍事組織を編成したのでしょう。それは朝鮮戦争の勃発によって、日本の治安維持のためということで日本人が暴動を起こさないよう見張っていた米国の治安部隊を朝鮮半島に送ったため、日本の治安が心配になったためなのです。日本人が暴動を起こさないよう見張るために置いていた軍隊の代わりに、それを日本人にさせようとしたのが警察予備隊なのです。つまり、初めから外からの攻撃に備える防衛のためではなく、日本国内に暴動などが起こった場合には日本人によって日本人を鎮圧するためだったのです。いざとなれば日本人に向けるためにM1ガーランド小銃と特車と呼び名を変えた戦車が支給されました。

 わたしたちは巨大災害などの時の自衛隊の真摯で献身的な活動を見ています。だからこそわたしたちは日本国民のための自衛隊であると信じていますし実際そうでしょう。しかし、自衛隊はその生まれた時から、実はいつでも日本国民に銃口を向けるためという宿命を背負って生まれているのです。しかも、朝鮮戦争下に急いで準軍事組織を編成するために、旧軍の将校、下士官を多く採用しています。旧軍の生まれ変わりではないまでも、その影を引きずっていること変わりはありません。

 長々と書いてきましたが、だからこそ、国の防衛とは何か。わたしたちの平和な暮らしを守るということは何かと言えば、まず、わたしたちが自分の国の為政者、権力者から目を離さないことです。日々の暮らしのその先に、少しでもきな臭さを漂わせる政治に対して「ノー」を突き付けることなのです。以下の日本なら沿う言葉を発することに勇気はいりません。必要なのは自分と自分の愛する人々のほんの少し未来を見据える目と、自分のその目を信じて行動することだけなのです。

 そんなことを言っても「隣国が攻め込んできたらどうするのか」と思うかもしれません。北朝鮮がミサイルを打ってきたら黙って打たれるままでいいのかと声高に言う人もいます。そのためにこそ、わたしたちは有能で信頼のおける政治家を選び、支えなくてはなりません。世界中を見渡すと、戦争を引き起こさないために必死の思いで外交という政治の大切な機能を果たそうとした政治家はたくさんいます。日本にそういう政治家がいないはずはないのです。もう一度言いますが、戦争は始まってしまえば、取り返しのつかない悲惨な状況が果てしなく続くことになります。しかも、戦争は政治・外交の一形態でしかありません。つまり常に戦争以外の政治と外交を選択することは不可能ではないのです。

 この国を戦争のできる国にしてはなりません。戦争のできる国であると、戦争をしたがる勢力は権力者以外にも必ず出現します。太平洋戦争を引き起こしたのは、決して日本だけの責任ではなかったことは分かっています。しかし、真珠湾攻撃の成功に喜んだのは、立案者である山本五十六や日本国民だけではありません。むしろ、日本国民以上に小躍りするほど喜んだのは当時のアメリカ大統領ルーズベルトであり、ヨーロッパ戦線で苦境に立たされていたイギリスの首相チャーチルだったことも、今では常識となっています。真珠湾攻撃やイギリス海軍の戦艦撃沈の結果として、その後の4年間に日本はどんな道を歩むことになった忘れてはなりません。そしてだからこそ、どんな状況下にあっても戦争を選択しない国であることこそが、究極無比の防衛手段だとわたしは信じているのです。

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わたしの政策談義 

9.防衛について-1

 わたしは市議会議員として本議会で何度も大分市の「消防力強化」について論議してきましたし、消防局を所管する総務常任委員会でも常に消防力強化のための方法論を提案したり、紹介してきました。わたしの言う消防力の強化とは「消防局員の定員確保」「最新鋭、最強の装備品を持つこと」です。さらに「消防局員が日頃から徹底した訓練をしつつ、実出動がないままに定年を迎えること」と「はしご車や化学消防車などの最新鋭、最強の装備品を一度も出動させることなく廃車にできること」が「大分市民にとってのもっとも幸せなことだ」と付け加えることも忘れたことはありません。

 究極の防災は「災害を起こさないこと」です。しかしながら、火災は不断の努力によってある程度防げるとは言うものの、自然災害によって引き起こされる火災は防ぎようもありませんし、その自然災害は地震にせよ台風にせよ未然察知することはともかく、発生そのものを予防する方法はありません。同様に究極の防衛とは「攻撃することも攻撃されることもない状態、つまり平和を維持すること」です。そのことを忘れたかのように「台湾有事」「中露の脅威」「日米韓軍事同盟」などという言葉だけが飛び交っていること自体が空恐ろしいことではないでしょうか。ましてや元首相がわざわざ台湾に行って「日本の戦う覚悟」などと公言するに至っては、日本はついに戦争をする国家へと突き進むようになったのではないかと考える思うのはわたしひとりでしょうか。

 勿論、災害のない郷土が、それを願っているだけで得られるものではないのと同じように、平和もまた祈るだけでは守ることはできません。まして、歴史や文化、国民性、国内事情のどれ一つをとっても違う国々との関係において、少なくとも戦争をしないという状況を維持することは、ひと時の気の緩みも許されないほどの緊張感と知恵とが求められます。

防衛という場合、仮想敵国、つまり日本に攻めてきそうな国を想定することになります。現在、日本の周辺に日本を領土的な野心を持っている国は、わたしはないと考えていますが例外が1国だけあります。もちろんそれは中国でもロシアでも北朝鮮でもありません。それは米国です。そのことをわたしたちはこれまで知らないふりをしてきました。日本が無条件降伏によって占領下にあったのは1945年から1951年まで間でした。占領していたのは連合国ですが、実質的には米国でした。1951年に日本は曲がりなりにもサンフランシスコ講和条約によって独立を果たしましたが、その時、米国と交わした日米安保条約によって、日本は新たな形で米国の、少なくとも米軍の、植民地同様の国になり、70年以上過ぎた今日でも米軍に治外法権を許しているわけです。日本に領土的な野心持っている国ということになれば、未だにこの国を実質的に占領し続けている米国だけだと考えているのはわたしだけではないはずです。

 もう一つ意外なことを言うようですが、米国が未だに日本をその統治下(少なくとも管理下)においていることを、内心最も望んでいるのは他でもない中国だと、わたしは考えています。中国にとって日本は歴史的には朝貢して来ていた周辺国の一つであり、中華圏の外にあって、中華を四囲する東夷、北狄、西戎、南蛮の一部を成す所謂「化外の民」でした。同じ東夷であっても朝鮮半島は早くから中華に対する小中華と自らを卑下して分家を自任することで、中国の歴代政権から「化外の民」というよりは「遠い親戚」という扱いを受けることで、安全を保障されてきました。「白村江の戦」の時の唐、秀吉の入寇の際の明の対応を考えれば、それが単に地理的な遠近ではないことが分かります。

 もともと「夷=野蛮人」ですから「華=文明国」側から見れば何を考え何をするのか判りません。ごく少ない例外的な平和的な邂逅(古代の朝貢や遣唐使)を除いて、中国側にとっては時の政権を永く悩まし続けた倭寇、秀吉による朝鮮半島への侵略(文禄・慶長の入寇)、昭和初年の旧日本軍による侵攻などの経験から、日本は何をしかけてくるか中国側の論理では到底予測不可能なのです。その化け物のような夷の住む隣国が、さらに困ったことに一時は(明治維新から太平洋戦争まで)は中国を凌駕する勢いだったのです。

 その点、米国はその時々の自身の国内事情もあったとはいえ、欧州列強や日本が中国の混乱に乗じて侵略をしかけてきた時も、常に紳士的であり続けましたし、所謂大人の付き合いのできる国であり続けました。あの自国以外は全て国名に、ことさらに卑しい漢字を当てはめてきた中国が、米国だけは「美国」と呼んできたことにもそれが現れています。

 これは勿論、わたしの考えではありますが、少なくとも冷戦下、及びその後の経済成長期の中国にしてみれば「いつ自分たちには考えも及ばない理由で食いついてくるかもしれない野蛮な日本は、武装ほう起したまま、少なくとも紳士的な話し合いが出来る米国に縛られている」方がいいのです。日本国内で米軍基地の存在に反感が嵩じてくると常に、中国は尖閣をはじめとする日本近海で示威行為を強めて、米軍の日本国内でのプレゼンス(つまり日本の拡大志向を封じ込めるための軛)の確保のために米軍への援護射撃ともとれる行為をしてきました。いつ食いついてくるかもしれない危険な山犬は、米国の鎖(軛)につながれていてくれた方が安心と考えているというのは穿ち過ぎた見方でしょうか。

 「野蛮なのはどっちか」などという論議は無意味です。中国には中国の4千年の歴史を通して培ってきた論理しかありません。そしてそれは今日の日本の常識とは全く違うものです。中国の論理で中国国内の矛盾や国民の不満を外に逸らせる対象として日本は格好な国ですし、どんなにいじめようが貶めようが、米国が日本を自国の占領地同様に抑えている以上、日本が中国に歯向かうことはないと、中華人民共和国の歴代の指導者は考えているとわたしは考えています。なぜそんなことを言い出したかというと、防衛、国防の本質がそこにあると考えるからです。

 しかし近年、中国が驚異的な経済成長を遂げたことによって、状況は変わりました。中国の米国に対する現実主義としての好意的な外交スタンスは大きく変わったのです。特に戦争を経験したことのない習近平政権になって特に、その変わりようは激しくなってきました。

 激しい血みどろの内戦を戦って中華人民共和国を建国した毛沢東は、彼の存命中、ベトナム戦争、中越戦争、対カンボジア戦争をやりながら、1969年には中ソ国境となっていたウスリー川の珍宝島を発端として発生した中ソ衝突によって中ソ双方に戦死者を出す戦闘をしてしまいました。その頃の自国の国力とソ連のそれを比較して、毛沢東は国境線の向こう側に配備されたソ連軍の戦車が今にも押し寄せてくるのではないかという恐怖にさいなまれ続けていたそうです。

 それに比べて、ソ連の崩壊後、さらにはプーチンが繰り返し外交的、軍事的な判断ミスをしてくれたお陰で、今や立場が逆転しました。中露の国力の圧倒的な差を背景としているのが戦争を知らない世代である習近平なのです。その習近平にとって自国を脅かす強国は今や米国しかなくなりました。戦争の怖さをよく知っている毛沢東の時代は米ソ双方への両面作戦は考えることさえ不可能でした。冷戦期から米中国交正常化までの間、米国もまた自国の経済進出の目論見から中国の期待に応えていました。しかし、今や世界第2位の経済大国として米国に肩を並べる中国の指導者は、自国の仮想敵国を米国一国に絞っているようです。

 そうなった今日、日本はどうなるのか。中国にとって在日米軍は謂わば自国ののど元に突き付けられた匕首の存在であり、仮想敵国の言いなりなるしかない日本は、歴史的な厄介者の倭国というだけでなく米国の脅威を助長する一部ということになります。現にベトナム戦争時代、当時の北ベトナムに爆弾の雨を降らしたB52爆撃機は沖縄から飛び立っているのです。

 ロシアによるウクライナ侵攻以来、台湾有事が現実味を帯びてきたと騒がれています。元首相が台湾で「戦う意志」について言及したというのも、その話の一環なのです。政権与党はこの機に乗じて防衛強化の必要性と言いながら、「日米韓軍事協力体制の強化」「自衛隊の戦力増強」「殺傷能力ある武器の輸出解禁」などなど、日本がもう一度戦争のできる国なることを目指しているとしかわたしには思えません。しかも、その実態はアメリカ追随型の軍事力増強であり、中国の側から見れば、のど元の匕首の強大化なのです。

 では米国はいざという時、自国民を危険にさらしても日本を防衛してくれるのかというと、日米安保条約とその付則である日米地位協定を読み解く限り、米国はそんな約束はしていません。米国にそんな義務も義理もないというのが真実です。米国にとって今日的な日本の価値は単に基地を置くことができる国であるということです。貿易関係にしても日本は米国の相手国としてなら、とっくの昔に中国に抜かれているのですから。(続く)

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議会報告 令和5年7月定例会

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わたしの政策談義 8.軍備について

 台湾海峡の波高しということで、自民党政権は鉦や太鼓で「防衛力増強」「武器輸出3原則のなし崩し的緩和」を喧伝し、果ては核兵器保有論まで飛び出す始末です。そのことが日本の国の将来に向けて如何に危険な兆候であるか、もっと云うなら未来の国民の命を犠牲にすることをいとわない暴論であるかを、わたしたちは感じ取らなくてはなりません。つい100年前の20世紀の初頭、我々日本人は滅びへの死の行進に一歩を踏み出し、留まることも止めることもできないまま、300万人を超す犠牲者をだし、全国の主だった都市を焦土と化してしまいました。今また、その道へ踏み出そうとしているとしたら、現代を生きる我々の未来の日本人に対する背徳だと、わたしは考えています。

 繰り返しになりますが、最近の政治動向を見ていると田中角栄元首相が言った「戦争を体験している我々が政治の中枢にいる間はこの国は大丈夫だ」という言葉に重みをかんじます。空恐ろしいことに現在、国内の現役政治家にはあの太平洋戦争を経験した世代は見当たりません。外国に目をやっても、1953年生まれの中国の習近平もまた毛沢東たちの血みどろの内戦を知りません。高齢が政治的な課題となっている米国のジョー・バイデンでさえ1942年生まれです。さらに1952年生まれのウラジミール・プーチンは戦場での経験が無いだけでなく、軍隊生活すらも経験したことがありません。そのプーチンが侵略戦争を決断したことは、70数年前に我が国が犯した大きな過ちに通じるところがあるのも歴史の持つ皮肉さであるのかも知れません。ロシアとウクライナの歴的なつながり、言葉の共通性、隣国同士であることなどを考えると、正しく「戦争を体験している政治家がリーダーであるうちは世界は大丈夫」ということのアンチ・テーゼつまり「世界中のリーダーたちが戦争を体験していない政治家ばかりとなった今日、世界は危うい」のです。

 今の日本はかりそめではあっても確かに平和を享受しています。しかしこのまま座してその平和を享受するだけでは、少なくとも未来のわたしたちの平和までは保障されません。大岡昇平は彼の小説の一節で「軍に抗うことは確実に殺されるのに(大岡昇平戦争小説集靴の話・出征)」と書いています。そして「じっとしていれば、必ずしも召集されるとは限らない。招集されても前線に送られるとは限らない。送られても死ぬとは限らない(出征)」と考え「わたしは祖国をこんな絶望的な戦にひきずりこんだ軍部を憎んでいたが、わたしがこれまで彼らを阻止すべく何事も賭さなかった(俘虜記:捉まるまで)」のです。

 確実な死を覚悟し、それないっそ自らの命を破壊しようとした土壇場で、初めて「確実な死に向かって歩み寄る必然性は当時の生活のどこにもなかった。しかし今殺される寸前のわたしにはそれがある(出征)」ことに気づき、それでもなお、わたしがこれまで彼らを阻止すべく何事も賭さなかったことから「今更彼らによって与えられた運命に抗議する権利はない(捉まるまで)」と書くしかありませんでした。

 わたしはこれまでも「全ての軍隊はいつか必ず自国民に銃口を向け引き金を引く」と言ってきましたが、大岡昇平の生きていた時代、この日本の国の軍隊もまた、日本国民であっても自分たちに歯向かえば確実に死をもって報いることを辞さなかったのです。少なくとも大多数の国民がそう思っていたし、現実にもそうであったことを歴史が証明しています。

 政府の言う防衛力増強とは、兵器、兵力の増強であり、結局のところ自衛隊の組織拡大なのです。一度構成された組織はあらゆる生物がそうであるように、誕生と同時に自己の存続と成長(拡大)を希求します。そして、その存続と成長を阻もうとする存在を敵とみなし、自己(組織)を守るために、その存在を否定しようとします。軍隊も組織である以上そうです。本来の存在意義であるはずの「国防」よりもまず、自分たちの組織の保全(つまり存続と成長)を優先したくなるのは自然な自己防衛本というべきかもしれません。自らの存続と成長を阻もうとする存在を認めないというのはどんな組織もそうですが、軍隊の場合、暴力装置を有しているだけに当然ながら他の組織よりも危険です。そのことを日本の政治家も自覚していたのでしょう、少なくとも1970年代くらいまでは防衛大学校では「自分たち自衛隊員は軍人ではない、自衛隊員である」と教育し、そう自覚させていました。それがどうでしょう。現在、いつの間にか自衛隊は他国が認めるだけでなく、自分たち自身が軍隊であると口外して憚らなくなっています。それだけでもこの国がかつての軍隊に席巻され蹂躙されていた国へと確実に一歩を踏み出してしまったと思わざるを得ないのです。

 現在「殺傷能力のある防衛装備品(武器)の輸出を解禁」することを与党内で検討中です。残念ながらそこに国民世論などの入り込む余地はありません。わたしは長く外国で暮らしていましたが、その当時の日本の工業生産の技術の高さは世界中の称賛の的でした。その頃よく「日本の技術をもってすれば、性能の良い兵器を作れるはずなのに、それを造って輸出しようとしない。素晴らしいことだ」という声を聞いていました。

 1978年にソ連(当時)がアフガニスタンに侵攻した際、タリバンに対して米国が大量の武器を供与したことがありました。ソ連が引き揚げた後、タリバンと米国が敵対し交戦するようになると、米国がタリバンに供与した米国製のスティンガー(携帯式地対空ミサイル)が米国の攻撃用ヘリコプターを撃墜しました。

 それはベトナム戦争終結後の1978年から12年続いた中越戦争の時にも同様で、ベトナムが使ったのは、ベトナム戦争当時に中国から供与された中国製の武器でした。1982年に勃発した英国とアルゼンチンのフォークランド戦争の時には、同じ欧州諸共同体(EC)の一員同士で、北大西洋条約機構(NATO)の同盟国であったフランス製のエグゾセ(対艦ミサイル)一発で英国のフリゲート艦が撃沈されました。それぞれの国で兵器製造に就いていたその国の国民は、自国民や友好国を守るために危険な仕事に従事していたはずですが、その人々が製造した兵器が供与や輸出によって一旦他国にわたると、自分たちの国民や同盟国の国民を殺すことに使われてしまうということの皮肉さと深い悲しみを覚悟しなくてはならないのです。

 日本国内で製造されている殺傷目的の兵器や弾薬は今のところ全て自衛隊のためですが、それを輸出することになれば、いつの日か日本人が造った兵器・弾薬で日本人が殺されるという事態が起きることになります。日本人にそんな悲しい仕事をさせるわけにはいかないと思いませんか。

 「核兵器保有論」についてはもう論外というしかありません。核兵器に戦争抑止力があるという考え方は破綻しているだけでなく、もともとまやかしでしかありません。むしろロシアのプーチン、北朝鮮の金正恩に核兵器を持たせていることで核の脅威はいや増すばかりです。しかも、実は他の保有国である安全保障理事国やインド・パキスタンなどの国々についても核保有の目的は同じです。核兵器を保有するということが自国の安全ためというより、他国への恫喝のためなのです。世界で唯一の被核攻撃体験国である日本としては、核兵器を持とうというのではなく、核兵器を持つ国々に対して「核兵器放棄」を訴え、少なくとも「核兵器不使用の国際ルール」を確立することにリーダーシップをとるべきであり、世界中の核兵器禁止条約参加国(2023年1月9日現在署名国92か国・批准国69か国)がそのことを期待しています。そのためにも核兵器禁止条約に一日も早く参加して、米国にきちんと物申す「厄介な」同盟国になるべきですし、先ずは本年(2023年)11月にニューヨークで開催予定の参加国会議に、オブザーバーとしてでもいいから参加することを表明するべきと、わたしは訴え続けたいと思います。

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わたしの政策談義 7.日本の安全保障についてー2

わたしの政策談義

7.日本の安全保障についてー2

 日米地位協定は全部で28条あり、しかもそれぞれの項目が非常に長いものです。条例本体に付随する付則や付帯条項の常とはいえ、全部で10条しかない日米安全保障条約本体に比べて怖いほど細かく規定されています。日米地位協定は日米安全法相条約の中でも第6条に規定されている「施設・区域の使用に関連する具体的事項及び我が国における駐留米軍の法的地位に関しては日米間の別個の協定による」という条文に基づいて定められたもので「施設・区域の使用および駐留米軍の地位を規律する協定」となっています。日本の国の安全保障について論議し、あるいは憲法改正について論議するためには、その前提としてまず、わたしたちがその存在を知ってはいても、中身までは知らないか知らぬふりをしてきたその日米地位協定の中身について光を当て、日本と日本国民にとってどのような意味を持っているのか検証することが必要であることは論を待ちません。

 わたしが憤りと共に問題視しているのは日本政府が日米地位協定を1970年に自動継続としたことです。同協定の第28条には「この協定及びその合意された改正は、相互協力及び安全保障条約が有効である間、有効とする。ただし、それ以前に両政府間の合意によって終了させたときは、この限りでない」とあります。そこで改めて日米安保条約を見ると第10条に「・・・、この条約が十年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行なわれた後一年で終了する」となっています。

 1970年はその10年の効力期間の最後の年だったのです。それをつまり日本側からは安保条約を終了させる意思はないと表明したことになります。1970年は安保闘争の年となりました。70年安保闘争の議論の的はいくつもありましたが、中でも最大であり、今日にまで重大かつ負の影響を残しているのが「自動継続」の決定を日本政府がしたことにあったとわたしは今でも考えています。

 毀誉褒貶の激しいのは昭和の政治家たちの常ですが、中でも特に際立っているのが田中角栄氏です。しかし、その彼が「あの戦争を知っている人間たちが政治家である限り、日本は戦争をしない」と言っていることをご存じでしょうか。その彼の一言でわたしの田中角栄像は定まりました。それは「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが戦争を知らない世代が政治の中枢になった時はとても危ない」ということであり、つまりは「戦争を知らない政治家ばかりになったら、日本は戦争をする」と言っていることになります。そして、正しく今、日本だけでなく世界中の主だった国々の政治の中枢にいるリーダーたちは戦争を知らない政治家ばかりなのです。

 自民党政権は台湾有事に備えてなどといって軍備増強を図ろうとしています。大震災からの復興を助けるため復興債だったのはずの所得税増税分でさえも、その軍事力強化のための財源に回そうとしています。しかも、復興債だけで足らないと見るや捕捉率の高いサラリーマンの懐にさらに手を突っ込もうという増税論議も喧しくなってきました。日本の軍備増強は結局のところ、戦争を知らない政治家たちが、米国のビッグファミリーのロビー活動に踊らされている時の政権の言いなりになって、兵器を買いあさろうとしているにすぎません。軍拡は仮想敵国の更なる軍拡を誘い、そのいたちごっこは終わりがないどころか、戦争という形で破綻するまで続くことになるでしょう。いつか来た道をまた日本に歩ませようとしていると、わたしには思えてなりません。安全保障という言葉から、わたしたちは直ぐに日米安全保障条約を思い浮かべますし、また思い浮かべなくてはならないと、わたしは常に考えています。そして、その日米安保条約の本質が何であるかを、日本国民は正確に見つめ直さなくてはならないのです。

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わたしの政策談義                      6.日本の安全保障について

 外交」とか「防衛」なんていうことは本来、地方議員が云々する話ではないかも知れません。そのことはよく判っているつもりです。わたしは市議会議員に初当選以来これまでの26年間、質問に立たなかった議会は一度もありませんし、常に持ち時間を一杯に使って論議してきました。それでも国の専権事項である外交や防衛に関する問題を市政の論議の場で取り上げたことはありませんでした。安全保障という言葉そのものはわたしの質問でも何度か取り上げてきましたが、それは「食料安全保障」や「情報安全保障」などに限ってきました。しかし、これまでの自分の国内外での経験について振り返る時、わたしなりに考えるこの国の在り方、また、外のから見てきた自分の国の姿について語ることも、少なくとも人生70歳の坂を越えた爺さんに残された社会奉仕の一つではないかと思うようになりしました。

 日本の安全保障という時、真っ先に挙げなくてはならないのが日米安全保障条約であり、その付則である「日米地位協定」だとわたしは思います。まずはそのことから聞いていただきましょう。「日本は自主外交を展開しなくてはならない」と言われて久しいのですが、その自主外交についてわたしたちが考える場合に真っ先に考えなくてはならないのが、そこに立ちはだかる日米安保条約と地位協定の存在であることは論を待ちません。わたしたちが知っている日米安保条約は1960年に岸信介政権下で結ばれた「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」のことであり、それが今日まで続いている安保条約です。

 一方、1951年にサンフランシスコ条約によって、日本の独立が認められた時に「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(旧安保条約)が締結されていました。この条約はたった5条からなる単純なものですが、日本独立後も占領軍が駐留軍と名前を変えるだけで「望む数の兵力を」「望む場所に」「望む期間」駐留させる権利をアメリカ合衆国(当時の国務長官ジョン・フォスター・ダレスの発言)が確保するためだけのものでした。それは言ってみれば、それまで繰り返されてきた米国の、国としての気質そのものが反映されたものでした。要は単純に(それだけに露骨に)米軍が引き続き日本国内に駐留し続けることだけを明記したもので、条約の期限は無し、米国が日本国を防衛する義務は無し、日本で内乱が発生した時には米軍が鎮圧(内政干渉)するというものでした。

米国人の気質というのは別の言い方をすると、米国人の欺瞞的、二重人格的気質です。つまり米国人は国内的に徹底した民主主義を装いながら、国際的にはまるで古代ローマ帝国の再来として、帝国主義的なふるまいを何の躊躇もなくやってのける気質です。第二次世界大戦以降だけでもベトナム戦争、イラク戦争、リビアへの軍事介入などなど、その具体例は枚挙に暇はありません。1970年の安保条約再批准の際、それに反対する側がシュプレヒコールで「米帝」とか「アメリカ帝国主義」と連呼していましたが、当時の東西冷戦状態の中とはいえ、ベトナムでの米国のふるまいを考えれば、米国が「世界帝国」を自任していながら、自国内では民主主義の体現者をふるまっているという二重人格性を思い起こさざるを得ないのです。

 1960年に岸信介とアイゼンハワーによって交わされた現在の安保条約は、その批准のための国会が大荒れとなり、批准に反対する学生が国会に突入しようとして女子大生1人がなくなるという悲劇も生まれたため、安保と言えば多くの日本人がこちらを思い浮かべることでしょう。旧安保条約は前文と条文5つでだけでしたが、新安保条約は前文と条文10条になりました。しかし、第6条の条文に「在日米軍について定める。細目は日米地位協定に規定される」とある地位協定が、今日まで続く我が国の社会的矛盾と欺瞞の、まぎれもない根本原因なのです。まさに日米安保条約とは米国に治外法権どころか、日本全土を租借地同然に差し出しているに等しい不平等条約であり、日本の外交政策上の最大の禍根であり、明治初年の先人たちがやったように、あらゆる知恵を注いで不平等条約を解消し、その上で改めて平等・対等な同盟関係を構築するべきではないでしょうか。

 日米地位協定とはつまるところ、日本の敗戦直後から日本に占領軍として駐留してきた米軍の地位を、そのまま日本が認めるという屈辱的な協定です。この協定によって守られるのは米軍人、軍属、その家族であり、米軍の日本国内での行動の自由であって、日本人の安全や知る権利を保障するものではありません。重ねて言いますが、日本国内でありながら、米軍基地内は租借地であり治外法権の地です。それどころか米軍関係者やその関係する事案(米軍人による犯罪や交通事故、軍用ヘリコプター墜落などなど)は、租借地外においても日本国の法権力が及ばないことになっているのです。わたしたち日本人はそのことに気が付かないふりをし続けることで、確かに冷戦時代のこの国の安全を保障し、敗戦の焼野原から高度経済成長を実現しました。特に1960年代から1980年代まで大いに繁栄を極めてきました。しかし、東西冷戦がソ連の崩壊によって一歩的に終結したとたん特に小泉政権以降今日まで、日本の富とそれを支えてきた技術力は、米国と米国のビッグファミリーや投資ファンドによってむしり取られ続けてきました。そのことは、まだ外国にいた頃からわたしは機会あるごとに言ってきたことです。なぜなら、わたしの働いていたブラジルやその他の南米諸国、あるいはエジプトでさえ、経済援助を享受しているはずのそれらの国で、米国が嫌われていることを体感していたからです。しかし、バブル期の狂騒の期間中はもちろん、バブル崩壊後の混乱の中でも、わたしのその警告は螻蛄の鳴き声ほどにも誰にも届きませんでした。

凶弾に倒れた前首相の執念がそうさせているのか、岸田首相の熱意なのか、最近になって改憲論議がさらに実現性を帯びてきました。しかし、わたしは長年、改憲の前にまず日米安保条約と地位協定の改定ないしは破棄が必要であると考えてきました。特に日米地位協定は明文化されて公表されているうわべだけでなく、所謂「密約」というものがあることが問題なのです。何が問題化と言えば、その「密約」によって日本での米軍の存在を実質日本国憲法よりも上位にあると規定していることです。憲法よりも上位にあるのですから、米軍にとって日本の国内法などは存在しないも同然ということになります。

 例えば「航空法」という国内法があります。これによって航空機の飛行経路、飛行高度などは非常に細かく規定されているのですが、米軍の飛行機はこの法律からも除外されてます。従って米軍がそうしたいと思えば、日本中の好きなところを好きな高度で飛ぶことが出来ますし、それに対して司法に訴えようにも地位協定がある以上、裁判所は取り合おうとさえしないのです。ずいぶん昔の話ですが、旧安保条約が日本国憲法に照らして違憲か合憲かが争われた砂川事件というのがありました。東京地裁は違憲との判決だったのですが、これに対して高等裁判所を飛び越して最高裁判所が「米軍駐留を定めた安保条約は高度の政治性を有しているから司法裁判所の審査にはなじまない」という訳の分からない理由を付して、安保条約が合憲か違憲かについての判断はしないまま、原判決を破棄、東京地裁に差し戻しました。そのくせ「外国軍隊は憲法第9条にいう戦力にあたらないから米軍の駐留は憲法に違反しない」と米軍の駐留については合憲と判断しているのです。この最高裁の判断に依拠する形で、以来、日本国内の米軍は日本国憲法より上位にあるとされてしまいました。この最高裁判断が1960年の日米安保条約の調印のひと月前だったことも、判決が何事かを象徴していると言わざるを得ません。

 オスプレイが在日米軍に配備された時、大分市を含めて市街地の上空を低空飛行するオスプレイの騒音が問題になったことがありましたが、米軍機が訓練や移動のために飛行をする場合、日本国中どこでも飛ぶことが可能であることは既に述べました。ほかにも、わたしたちの記憶に新しいところでは2004年に普天間基地隣接地の沖縄国際大学構内に米軍のヘリが墜落する事故がありました。普天間基地は米国が自国以外に設置している唯一の海兵隊基地ですが、事故後どのような経緯をたどったかということほど、沖縄ひいては日本の置かれている状況を物語っていることはありません。

 さらに言えば、普天間基地の移転問題で、当時の鳩山由紀夫首相が「できれば国外、最低でも県外」と言った時の日本の官僚による悪意のあるリークとサボタージュ、それを増幅する形で「鳩山おろし」を煽ったマスメディアも、主権を有する国のはずの日本の時の首相が米軍の意向に逆らったらどういう目にあわされるかを見せつけた共犯者だったと、わたしは今でもそう思っています。それがまさに日米の地位協定に描かれていない「密約」の存在を裏付ける動かしがたい証拠だったのです。しかしその時も、リベラル系の政党、リベラル系のマスメディアでさえ知らぬ顔をして鳩山おろしの大合唱になったのです。

米国が国外に設けている海兵隊の基地が普天間以外にないと言いましたが、米国内には2カ所あります。そしてそのどちらの基地からも、飛び立つ海兵隊のヘリコプターやオスプレイは米国人の住む市街地上空を飛ぶことはありません。海兵隊であっても米国内の航空法は遵守する必要があります。それが日本に来ると日本にも確かに存在している日本の航空法などはお構いなしに好き勝手に大学どころか小中学校もある市街地上空を飛び回っているんです。

 だからこそ日本が自国の安全保障を本気で考えるのであれば、憲法改正よりも先に日米安全保障条約と地位協定についてきちんと評価と検討をしなくてはならないはずです。少なくとも存在そのものは既に公然となっている「密約」の存在を認め、米国が自国内では公開している「密約」について、その内容をつぶさに公開しなくてはならないでしょう。

 鳩山首相の話をしましたが、日米安保条約成立後、わたしの知る限り3人の首相が日本独自の安全保障構想を抱いていました。1人はロッキード事件という米国の仕掛けたハニートラップで退陣を余儀なくされた田中角栄であり、その次は社会党・新党さきがけとの連立政権について、訪米中に米国から注文をつけられたことで退陣した細川護熙、そして前述しました鳩山由紀夫です。鳩山首相の場合、繰り返しますが一国の首相が沖縄から基地負担を軽減するために「最低でも県外」と発言したことによって、霞が関官僚たちの裏切りに会い退陣せざるを得なかったということを、憲法論議の前にわたしたちはもう一度思い出して、それが何を意味するのかを考えなくてはならないのではないでしょうか。

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