管見耄言ー25「コメは足りている」

 少し冷静になって計算してみると、今回の米騒動も不思議な現象ではないかと思えてくる。2024年の、つまりわたし達が今食べているコメについての農水省の公式発表では水田の総面積は前年度比0.7%(1.6ha)減の231.9万ha、収穫量は734.6万トンということである。最近は減反政策の終了後も、年々田の面積は減ってきたが、それでも収穫量は令和3年756.4万トン、令和4年727.0万トン、令和5年716.6万トンと、700万トン以上で推移してきた。

 同じ、農水省の統計では日本人のコメ消費量は一人当たり年間50.9㎏、これに令和7年4月現在の日本の人口は1億2340万人をかけると628.1万トンになる。これに日本酒の原料米分約20万トン(令和4年)を入れても、差し引き106.5万トン余る計算になる。インバウンドの消費分も昨年のように3686万人も来るとなると無視はできないだろう。そこでこれも計算してみると、昨年のインバウンドの日本滞在日数は平均で3.08日、一人一食200g、一日に2食米飯や寿司を食べたとして、年間でせいぜい7万トンだ。コメの輸出量も計算に入れるとして、援助米を除くとコメとその加工品(日本酒や煎餅など)を含めて約5万4千トン。

 いずれにしても差し引き56万トンは余っている計算になる。これにさらに備蓄米の緊急放出が何十万トンある。これで未だにコメが市場に出てこないということは、誰かがどこかで隠しているということになるのではないか。何度も言ってきたように、今回の米騒動はトランプ関税交渉でコメの輸入量を増やすことになることを考えて、あらかじめ世論を操作しておこうという目論見があったのではないか。それをやらせるために協力してくれているノウーキョーやゼンノーに、一度高騰したコメを売り逃げる時間的余裕を確保しなくてはならなかったからこそ、大騒ぎになってもコメが市場に出てこなかったのではないか。そこにペテン師ジュニアが登場して、古古米どころか古古古米まで売りさばこうということになったのだから、どこかでコメを持っている誰かさんは慌てていることだろう。

 食管法が廃止され、減反政策を方向転換した以上、国は米価に対して影響力を持たなくなったし、持ってはいけないはずなのだ。そもそも主食のコメとはいえ市場原理に委ねるのが本筋だろう。影響力を放棄すべきところを、生産者の声に耳を貸すふりをして、それをしてこなかったのは自民党政治の無能さの証左である。

 もちろん、コメは永い歴史的経緯を経てこの国の主食となり、ステイタスシンボルであり、文化や伝統の基礎に組み込まれてきた。今日でも農業の中心はコメであると言っても過言ではあるまい。しかし、日本の自然環境や地理的、地勢的特性からして、コメの生産性は世界水準から見れば実は宿命的に低い。ササニシキに代表されるようなブランド米だと言っても、それはあくまで日本の国内市場の反映であって、一部の大金持ちの物好き相手はともかく、国際市場の常識的な価格で勝負のできるものではない。

 それでもわたしが米作を日本の農業、日本の農政の中心に据えなくてはならないと主張してきた。、稲作はもはや単に主食の確保、食糧自給率確保のためにあるのではないのだ。稲作はこの国の2千年以上の歴史の中で、治山治水と表裏一体の発展をとげ、わたし達の生活を根底から支える国土保全、環境保全のための必須要件となっているのである。

 だからといって、民主党時代に所得補償制度が論議された時、わたしは農業の本質、農業者の本音を知らない「おまち育ち」の政治家のいうこともうまくいかないと思っていた。ではどうすればいいと考えているか、詳しく述べてみたい。

カテゴリー: レオン・マシューの管見耄言 | 管見耄言ー25「コメは足りている」 はコメントを受け付けていません

泉都メンタル・ラプソディー

カテゴリー: 別府泉都メンタル・ラプソディー | 泉都メンタル・ラプソディー はコメントを受け付けていません

管見耄言ー24

コメは国防の要

 米価をめぐる騒動は小泉新農相の登場でメディアは大はしゃぎだし、自民党は参議員選挙を前にして人気回復となると期待しているようだ。「令和の米騒動」というが、本質的には「昭和のトイレットペーパー騒動」と変わらない。米価など食管法がなくなった今日、市場経済に任せておけばいいことである。不作になったからといって、生活を守るために、いつもより一袋多く買った消費者の心情は許されるとしても、まだ売っていなかった生産者の出し渋り、全農始め流通の各段階での思惑買いやコメ隠し、ましてや買い占め他業者などに「濡れ手に粟」の儲けは許してはならないのだが、それさえも政府が愚図々々している間に高値のまま売り抜けるかも知れない。

 ペテン師ジュニアの「コメの小売価格は5キロ、2000円」という選挙を意識した派手な事前運動キャンペーンにも腹が立つが、自民党農林族のドン森山幹事長の発言には呆れてしまう。曰く「生産者がいてはじめて米ができることを忘れてはいけない。安ければ良いというものではない。再生産していける価格こそ自民党の目指す方向性だ」というのは、一見まともなことを言っているように聞こえるが、いくら党の県連での気炎だったとしても、まるで他人事のような物言いに腹が立てなくてはならないのは当の生産者ではないだろうか。

 消費者もメディアも米価にばかり気を取られているが、米作、ひいては日本の農政の問題の本質はそこにはない。日本の農家の内、大規模農業をやっている事業体は農業者全体の20%もいないのに、その大規模農業者の米生産量は逆に全生産量の8割近くに上っている。自民党が票田にしているのは残りの零細農家であり、霞が関の農林官僚が天下る先は農協と全農、農林金庫である。今回の米価高騰にしても、昨夏の天候不順を幸いとして、政府が意図的に誘導した結果だと考えている。現に日米関税交渉の既にコメの輸入拡大というカードを切っているという。現政権は農業者重視と口にしながら、実際はこれまでと同じく農業者を裏切って、場合によっては日本の農業にとどめを刺してもいいと考えているようだ。。

 繰り返すが、森山幹事長の発言はとても責任政党の幹事長の、それも農林族のドンの発言とは思えない。これまであらゆる局面で農政をほったらかしにしてきたどころか、改革や刷新のチャンスのたびに農林族と農協はタッグを組んで、結果として農地を潰し農家を流亡させてきたのはどの政党だったのか。とはいえ、その政党を岩盤支持層として支えてきたのも当の農業者なのだから、話しは単純ではない。

 米の生産と流通は単なる食糧自給という農業問題に留まらない。それどころか国家安全保障の問題として捉えなくてはならない課題である。わたしがこれまで何度も言ってきたことだが、国の安全保障は、国民の生命財産を守り、次世代の将来へ夢をつなぐことにあり、そのために平和を維持することにある。だからこそ食糧の自給、国土の強靭化、環境の保全の三要素こそが、安全保障の根幹であると、わたしは考え、それを常に発言してきた。徒に武器を増強し、兵力を増やすことはかえって国民を戦争の惨禍に引き込む道筋でしかない。軍事力による平和の維持などというのは悪魔のロジックであり、現政権のように財源配分の最優先項目に軍事・国防予算を置いている状態を続ければ、やがて昭和初年のようにポイント・オブ・ノーリタ―ンを通過して、わたし達の子や孫を地獄に落としてしまう。

 今、最も優先すべき安全保障の根幹は農業である。農業は食糧だけでなく農業の持つ治山治水の一面を通して国土保全の根幹である。さらには食糧を野放図に輸入することは環境破壊と、保健衛生面での侵害に通じているのである。それを単に自党の票田としてのみ考え、農協を通してアメとムチで生産者を縛り、世論を操作し、輸出産業の生産活動を守るために国民を騙し続けてきたのは誰なのか、もう一度わたしたちは考えなくてはならない。さあて、この国の有権者は今夏の参議院選挙でその考えをどう形にするだろうか。

―続く―

カテゴリー: レオン・マシューの管見耄言 | 管見耄言ー24 はコメントを受け付けていません

別府泉都メンタル・ラプソディー

カテゴリー: 別府泉都メンタル・ラプソディー | 別府泉都メンタル・ラプソディー はコメントを受け付けていません

別府泉都メンタル・ラプソディー

プロローグ

 巡り巡って故郷に帰ってきた。湯けむりと硫黄の匂い、屏風のような山々に囲まれてこの町で育ち、18歳で上京し24歳で地球の裏側に渡り、夢のような日々を送った。1995年に帰国して、それから28年大分市で大分市民のために働いた。少なくともそのつもりだった。長くもない人生の果て、元のように無一文ではあるけれど、とにかく終の棲家となるであろう故郷に帰ってきた。

 子どもの頃から縦横に慣れ親しんできた「国際観光都市」「東洋のナポリ」である。遥か昔を懐かしみながら改めて歩いてみたい。

どんな心象スケッチが描けるか楽しみにしながら、さあて、どこから始めようか。

カテゴリー: 別府泉都メンタル・ラプソディー | 別府泉都メンタル・ラプソディー はコメントを受け付けていません

管見耄言-23.軍靴の足音が聞こえる

 昨日の本人と首相の発言では辞職も更迭もなかったのが、急転直下、江藤拓農林水産大臣が切られることになった。後任はペテン師ジュニアの小泉進次郎の名前が取りざたされているらしい。流石の自民党も選挙前の参議員たちに迫られて、トカゲの尻尾を切らざるを得なかったのだろう。国民の怒りがここまで膨らむと想像できずに高をくくっていた石破首相の政治感覚にも疑問符が付く。政治感覚の無さということでは国民民主党の玉木代表もなんでわざわざ「辞任は求めない。結果を残すことに期待する」なんて聞かれもしないのに、エールを送ったのか理解に苦しむ。こちらもこの発言で進退問題にならないのが、国民民主党の不思議なところだ。

 そんな中、赤澤特使が渡米する。まさか、参議院選挙前に、コメ輸入拡大のカードを切るほど馬鹿ではないと思うが、選挙が終われば総辞職にでもならない限りコメの輸入拡大ということになるだろう。日本の農家はまた、減反や他品目への転換を迫られるし、農地は確実に減っていく。農地が減るということは、平地では問題は少ないが、中山間地や急勾配の地域では、農地の荒廃イコール災害である。

 この国の政権党が誰を見て、どこを見て政治をしているか、今更ながら、わたしたちは良おーく考えなくてはならない。しかし、ここでも選挙そのものを金にしようと立候補したり、フェイク情報で撹乱しようとする輩が跋扈しているし、それに乗せられる野次馬有権者の存在もある。野次馬というのは関係のない人間が興味本位で騒ぐということだが、この国の国民である以上、関係のない人間ではない。野次馬感覚ということは自ら日本国民ではないと表明しているということのだが、嘆かわしいことにその自覚すらない。ネット上の野次馬たちにはそのことを思い知らせる必要もあるのだが、法整備は進まないし、石破首相はただ腕組みをして考えているふりをしているだけだ。

 そうしている間にもこの国の軍国化は着々と進んでいる。今はまだ、大方の国民には聞こえていないだろうが、軍靴の足音が微かに微かに、それでも確実に聞こえているのだ。このままではその足音がどんどん大きくなって、近づいてくることになるのだが。

カテゴリー: レオン・マシューの管見耄言 | 管見耄言-23.軍靴の足音が聞こえる はコメントを受け付けていません

管見耄言ー22.

「改憲論者」こそ歴史を歪曲する張本人たち
 旧安倍派の幹部が次々に復権を果たす中、またまた安倍晋三チルドレンの1人参議員議員西田昌司が物議を醸している。20年も前のあやふやな記憶というより、それ以前からの自身の持論を元に「ひめゆりの塔の説明は歴史の書き換えだ」だと言ったのだ。
 神道政治連盟などという怪しげな極右団体と沖縄県神社庁、日本会議沖縄県支部主催の憲法記念日シンポジウムとはいえ、憲法論議の場での講演であるだけに、沖縄県民のみならず、日本人皆が自らの問題として糾弾しなければならない。すったもんだの末、昨日(10日)になって発言は削除し、沖縄県民にお詫びするというコメントを発表したが、「ひめゆりの塔の説明が歴史の歪曲だ」とする持論そのものは変えようとしなかった。一度でもひめゆりの塔を訪れた人は誰でも、西田という安倍晋三チルドレンが言っていることの方が、こじつけ、難癖、フェイクであると知っている。彼は今夏の参議院選挙で改選期を迎える。だからこそ自らの岩盤支持層の受けを狙って持論を通しているのだろう。あとは京都府の有権者の良識に頼るしかないが、我々もは忘れないでおかなくてはなるまい。
 歴史の書き換えなどというが、妄想と意図的な軍国志向で歴史を書き換えようとこれまでも主張してきたのは西田自身だし、現にくだんのシンポジウムでも自分たちの納得できる歴史をつくる必要があるなどと歴史を歪曲しようという本音を口にしていたそうだ。統一教会の手先になってきた安倍派議員たちが、揃いもそろって戦争のできる国にしようとしていることに、我々はもっと注意を払わなくてはならない。そして自民党に巣食うこの輩、この極右集団が何故憲法を書き換えたいのか。それは日本を戦争のできる国にしたいからに他ならないということを、ことあるごとに声をあげていかなくてはならない。このままではこの国は戦争をしたがる人間たちのもと、戦争をする国になり、米軍基地の集中する沖縄の人々を再び地獄に引きずり込んでしまうことになりかねないから。
 繰り返すが、わたしは憲法も金科玉条とは思っていない、時代にそぐわないところが出てくれば、きちんと論議して変えていけばいいことだとも思っている。しかし、今、改憲改憲と叫んでいる輩は皆、9条のみを問題にして、その束縛を緩めて日本を戦争のできる国にしようとしているのだ。昭和の時代には本音はともかく自衛官が「自分たちは軍人である」とか「自衛隊は軍隊である」と言うことはなかった。ところが令和になってからは、西田のような極右集団に力を得てなのか、自衛官自身が「軍人」だ「軍隊」だといってはばからなくなった。
 自衛隊は自衛隊として既に憲法上も国際法上も国民感情としても、その存在を認知されている。ことさらに憲法を変えてまで自衛隊を軍隊として認めさせる必要はどこにもない。そうしようとしていること自体、危険極まりない好戦思想だとわたしはこれまでも常々言い続けてきた。
 そこで「ならばお前はこの国の安全保障をどう考えているか」である。それをこれからたっぷりと書きたいと思っている。乞うご期待。

カテゴリー: レオン・マシューの管見耄言 | 管見耄言ー22. はコメントを受け付けていません

管見耄言ー21.

財源は事業見直しと支出への優先順位

 減税政策論が出ると必ず与野党共に財源論を持ち出してくる。財源をどうするという話は一見そうかなと思わせるようだ。しかし、わたしは少し違うと思っている。国の財政もわたし達の家計も同じで、収入に合わせて暮らすしかないはずだ。新しい事業を始めるというのなら、その財源はどうするというのは当然だろうが、収入が減るという事態の場合は財源をどうするではなく、どれか別の事業や支出をやめようという話になってもいいはずではないか。国防費を始めとするタガの外れた予算設定、族議員や業界からの要求、金はいくらあっても足らないというのは、結局、国民の金を自分の立場を守るためにばらまこうということではないか。

 少なくとも旧民主党で行っていた事業評価は、無駄を減らして新たな支出に備えるというものであった。ならば、無駄を減らして、その分減税しようとなってもいいはずだ。本来、税とは公共事業や行政サービスへの対価である。重税感があるということは払う対価よりも受ける恩恵の方が少ないからではないのか。権力側が必要なだけの税率を一方的に決めるのは、封建時代や独裁、専制下の国の話ではないのか。55年体制成立以降、この国は増税増税また増税で、臨時だ期限付きだといって導入した税ですら、恒久化して上乗せし続けてきた。

 石破首相も「減税策を選択肢から外しているわけではない」と答弁して観測気球を上げていたが、結局、世論の重税へのハレーションは大したことはないと高を括ったようだ。自民党政権はお金持ち二世三世の世襲議員か霞が関出身が大半だ。いるだけ集めるという政治を踏襲して「パンを食べられないのならお菓子を食べればいい」式のピントハズレの「お接待」施策くらいしか思い浮かべられないようだ。

 消費税は税の直接、間接のバランスということではあるが、どうしても低所得者に重くなる。それを一定程度軽減するには「ベイシック・バスケット」方式による軽減税率を導入すべきであると、わたしは常々言ってきた。しかし、与野党ともに耳を貸す議員はいなかった。ベイシック・バスケットのバスケットとはスーパーの籠のことで、ベイシックとは最初にその買い物籠に入れる商品、つまり生活必需品のことである。

 生鮮食料品、米などの加工されていない主食、塩、砂糖、食用油、味噌、醤油などを非課税もしくは軽減税率にする。この考え方を取り入れている国々では食料品以外では、医薬品、学用品などにも非課税か軽減税率としている。

 一度かけた税は何が何でも止めないというのは、洋の東西を問わず税務官僚たちの性ではあるが、それをコントロールするのが政治であり、政治家であるはずだ。日本の場合、与党政治家は税務署のお先棒を担ぐばかりであるし、立憲民主党の野田党首に至っては民主党時代から減税を否定してきた。ここにきて唐突に減税と言い出したところで、一度政権を投げ出した男の言うことを信じる国民は少ない。

 結局、わたしたち有権者が政治家と政党を評価できる唯一の機会である選挙で意思表示するしかない。だからわたしは「早く来い来い参議員選」と思っているのである。

カテゴリー: レオン・マシューの管見耄言 | 管見耄言ー21. はコメントを受け付けていません

管見耄言ー20

大企業の内部留保資金は何のためだったのか

 日米関税交渉は今のところ日本にとって都合よく、スローペースで進んでいるように見える。トランプのパフォーマンスの興味はデトロイトからハリウッドに移ったようだ。石破首相には、米国債の束を積み上げて「財政赤字と借金に喘ぐ日本としては、これ以上財政出動するためには我が国の唯一の貯金である米国債に手をつけざるを得ない」と「独り言」を漏らしながら、更に時間稼ぎをしてもらいたいものだ。 
 自動車工業界は交渉を急げ急げと泣き言を言っているが、これまで稼ぎを社会にも労働者にも還元することなく、内部留保をせっせと溜め込んできた言い訳は「いつ何時コロナのような世界的な経済ダメージが来るかも知れない」だったのを忘れたのかと言いたい。日本の大企業は雇われ経営者ばかりで、公器でもあるはずの大企業が社会責任を果たすどころか、腹一杯でも泣く赤ん坊に成り下がってしまった。今や土光さんのような財界指導者は望むべくもない。
 一方の政界も与党は資金源であるパトロンの泣き声には敏感に反応して、甘い甘いミルクを与え続け、その分、零細企業や零細農家は甘いミルクでなく煮湯を飲まされてきた。その本当は腹を減らしているはずの企業や農家も、時々投げ与えられる食べ残しに釣られて「それでもやっぱり自民党」で来た。それをそろそろ終わりにしないと現役世代はさらに飢え、次の世代を理不尽な戦場での死に追いやることになるだろう。

 正しく「それでいいのか日本人」「早く来い来い参議員選挙」

カテゴリー: レオン・マシューの管見耄言 | 管見耄言ー20 はコメントを受け付けていません

管見耄言-19

ベトナム戦争終結の日に思う


 4月30日はベトナム戦争が米国の撤退によって集結して40年目の節目の日である。そこで思い起こすのは誰が米国をしてベトナム戦争というの泥沼に引き摺り込んだかということだ。それは意外にもジョン・F・ケネディである。そこからさらに思いが米国を第二次世界大戦に参戦させたフランクリン・ルーズベルトに向かう。これら20世紀の米国にとって悪夢ともいうべき戦争への加担を決断したのが、リベラルであるはずの民主党政権だということをわたしたちは忘れてはなるまい。
 米国人の単純でお節介な親切心は、これまでも世界の知るところである。その一方で自分たちの価値観をそれが正義だとしての押し付けと、気に入らなければすぐに腰の拳銃に物言わせてきたという国民性が、お節介な親切にもかかわらず支援を受けてきた途上国からは迷惑がられ嫌われている原因でもあった。
 わたしは長い間国際協力の現場にいて、途上国の人々の米国人嫌いについて目の当たりにしてきた。その意外とも言える実態を垣間見るたびに、日本の国際協力はその轍を踏むなと声を上げてきた。
 トランプの登場でそのことに拍車がかかっていることに、流石の単細胞たちもようやく身に染みて感じ始めているようだ。大学でのエリートで固められたホワイトハウスは、腹を減らしている自分たちを顧みてくれなかったと、こぶしを振り上げていたトランプの岩盤支持層も、自分の腹がさらに減り始めていることに気が付いて、ようやくトランプを喝采することをやめたようだ。
 慌てているのはもちろんトランプの方だろう。自動車部品への関税を見直すなどと言い出した。米国ほど産業構造が空洞化している国で、突然、輸入に制限をかければ何が起こるか、経済の専門家でなくても容易に想像がつく。世界最大の国の最高責任者の知能が如何なるものかを自ら露呈した格好だ。
 しかし、事はトランプひとりの問題でも、取り巻きのキツネたちのせいでもない。今起こっているのが米国の国としての現実であり真の姿なのだ。とはいえトランプの岩盤支持者たちに象徴される米国の病巣が露わになりつつあることを、わたしはむしろ歓迎している。
 パクスローマを誇った古代ローマ帝国は外敵からの侵略によって衰弱し終焉したわけではない。能力のない皇帝たちにその責任の一端はあるとしても、その無能に近い皇帝たちが生まれた背景には、ローマが持つ深刻な社会問題があった。皇帝が皇帝を守るべき親衛隊によって暗殺されるような事態が繰り返されるということは、国そのものがガバナンスを失っているということの証左であり、死病に冒されているということだ。
 どんな社会システムも、いずれは老朽化し、内部から腐敗していく。そしてやがて老木が少しの風に吹かれても倒れるように滅んでいく。世界四大文明などというが、そのどの文明も今日まで続いたものはない。全て遺跡や遺物になってしまった。ローマの場合、パクスロマーナ終焉後、ヨーロッパは暗黒の時代に突入し、地中海は混乱と騒乱の舞台となっていった。パクスアメリカーナ終焉後の世界をどのように迎えるか、そろそろ真剣に考える時が来ているのではないだろうか。
 わたしはこれまでも常々、このままでは米国という生命体としての地球に巣食う癌が巨大化して地球そのものを破壊してしまうと言ってきた。所謂、先進国と呼ばれるG7の国々が米国を除いて、全て人口減少・高齢化が社会問題化する中、米国だけが人口を増やし、しかも生産年齢人口比率も増加し続けてきた。癌細胞は1度発生してしまうとその活力を失うことなく成長を続け、やがて本体を破壊してしまう、本体である全体を殺して、そこでようやくその癌細胞も滅ぶ。成長を続ける米国はその意味で地球という生命体を脅かす癌細胞であるのだ。その意味で米国の成長が止まるということは喜ばしいことではある。

 しかしローマ亡き後の地中海世界の混乱を考えると、米国の衰退のの後に訪れる我々の未来に、大きな不安を覚えるのはわたしひとりだろうか。

カテゴリー: レオン・マシューの管見耄言 | 管見耄言-19 はコメントを受け付けていません